交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

和歌山市の寄合橋 (2021. 9. 5.)

和歌山市駅からほど近い,市堀川に架かるRC橋を訪ねた.

 

寄合橋は,和歌山城の外堀を起源とする市堀川に架かる道路橋である.本橋の歴史は古く,城が現役であった江戸時代には既に木橋が架けられていた.当時,周辺は昌平河岸と称する各種物産の荷上場として大変賑わっており,寄合橋の名称も,知るも知らぬも皆この橋に集まるという様子に由来して付けられたとされる 1.近代に入ってからは明治10年 (1877年),14年,37年にそれぞれ木橋として架換えられた記録がある 2

写真は寄合橋から約80m南に設置された解説板.寄合橋そのものの解説ではないが,左下の図から,遅くとも安政2年 (1855年) には寄合橋が存在していたことが見て取れる.また,「昌平河岸」の名が生まれた経緯も知れる.

 

現在の寄合橋は昭和16年 (1941年) に架換えられたRC橋である.この架換えが県の事業であったことは,「道路の改良」3 に記されている.以下引用 (■は読み取れず).

和歌山縣に於てはさしあたり急施を要する道路橋梁の改修につき調査を遂げ十二、十三年度に工費四■萬四千圓を以て左の通施工することを決定した。

道路 (略)

橋梁 和歌山市寄合橋、妙寺町三合橋日高郡松原村西川大橋

 

残念ながら,設計の経緯や施工者等,さらなる情報は不明である.一応「橋梁史年表」2 の出典にある「道路橋計画論」4 が,最近開始された国立国会図書館デジタルコレクションの個人送信サービスで利用できたので読んでみたのだが,寄合橋の名は見付けられなかった.

 

ちなみに,上の引用で併記されている妙寺町の「三合橋」は紀の川架設の「三谷橋」の誤植と思われるが,戦後の昭和30年 (1955年) に架換えられている 2 (訪問済みなのでいずれレポートする予定).松原村の西川大橋に至っては昭和30年の架換えの後,平成26年 (2014年) にも架換えられている 5.したがって昭和12・13年度に改修対象とされた3本の橋のうち,旧状を留めているのは寄合橋のみである.

 

2021年9月5日,南海本線紀ノ川橋梁の初訪問の後,本橋を訪ねた.場所は [34.2331015, 135.1678657].

見ての通り和歌山市駅のすぐ近くに位置するので,駅前でカーシェアの車を返却した後,徒歩で向かった.

道中で見つけた南方熊楠像.慶応3年 (1867年) に生まれた彼は,明治16年 (1883年) の中学校卒業までをこの地で過ごしたそうだ.木橋時代の寄合橋を渡ったこともあるに違いない.

 

熊楠像から南に100m足らずのところで川側を向くと,そこが寄合橋である.

東詰から見たる寄合橋.広い幅員の堂々たる橋である.

 

東詰の親柱には,南側 (写真上) に「寄合橋」,北側 (写真下) に「和歌山市堀川」とそれぞれ刻まれた御影石の題額が掲げられている.

 

親柱の手前には装飾的な袖高欄が控えている.よくぞ残してくれたものだと思う.

 

渡る前に,横から眺めてみる.

寄合橋,昭和16年 (1941年) 竣工,橋長33m,幅員7.5m,RC充腹アーチ橋,近代土木遺産Cランク.

 

非常に扁平な曲線を描きながら,無橋脚で水路を渡るシルエットが美しい.しかしこれはアーチ橋と呼んで良いものなのだろうか?「日本の近代土木遺産」が「RC充腹アーチ」としている一方,「橋梁史年表」では「RCラーメン桁」となっている *1.ちなみに「和歌山県の近代化遺産」には「RC橋」としか記されていない.いずれにしても,33mという長スパンをRCで渡るためのリーズナブルな形状・構造であったことは間違いない.戦争による金属不足の中,鉄材を豊富に使う鉄橋とすることは許されず,一方で水運への影響や高潮被害を避けるために無橋脚の橋とすることも求められたのであろう.当時の関係者の苦労が偲ばれる.

 

近景.桁裏には4本の主桁.この構図だと確かにRCラーメン桁にも見える.まァ分類にこだわる必要はない.重要なことは耐荷重やスパン長といった設計上の要件に応えることなのだから.

 

橋を渡って対岸へ向かう.

高欄.シンプルながら,中柱の装飾も含めよく保存されている.

 

渡りきって西岸からの振り返り.橋上は異様なほど広々としている.さほど交通量が多くないことも印象に影響しているが,幅員7.5mは現代の2車線道路が収まる幅であり (現在の道路構造令が定める1車線が幅員3.5m),昭和初期の橋としては実際に相当広い.

 

本橋の設計者や工事経緯は不明であり,このような広い幅員が求められた事情は判然としない.ただし昭和16年 (1941年) という時代と,和歌山市街と和歌山港を結ぶ道路上に位置することを考えると,軍部の要請が働いた可能性はある.和歌山港からは由良要塞の置かれた友ヶ島や淡路島も近い.

 

いずれにしても,この幅員の広さが,本橋の保存の助けになったことは疑いの余地もない.戦前橋にありがちな幅員3m程度の橋ならば,戦後のモータリゼーションの進展とともに架換えられたか,拡幅されたに違いない.そのようにして美しい姿を失った橋は全国どこにでもある.

 

西岸にも親柱と袖高欄が現存.親柱の題額には北側「よりあひはし」(写真上) ,南側「昭和十六年一月架設」(写真南) とそれぞれ刻まれている.

 

西岸でも川辺に降りることができた.都市化によって大きく変貌した街並みの中で,寡黙に働き続ける寄合橋を,とくと鑑賞した.

探訪は以上.和歌浦橋と中橋に続く.

参考文献

  1. 和歌山県教育庁・編 (2007) "和歌山県の近代化遺産:和歌山県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書" p. 100,和歌山県教育庁
  2. 土木学会附属土木図書館・編 (2008) "橋梁史年表" 2022年5月31日閲覧.
  3. 道路改良会・編 (1937) "和歌山縣の道路橋梁改修決定" 道路の改良,第19巻1号「地方通信」,pp. 165-166,道路改良会,2022年5月31日閲覧. 
  4. 小沢久太郎 (1961) "道路橋計画論" 道路,昭和36年12月号,pp.934-946,日本道路協会,2022年5月31日閲覧.
  5. 日高新報 (2014) "美浜の新西川大橋 まもなく完成" 2022年5月31日閲覧.

*1:後者の「n=5」つまり5径間であるという記述は明らかに誤り.