交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

みなべ町の高橋 (2021. 8. 10.)

南部川上流部に架かる,戦前生まれの巨大な方杖ラーメン橋を訪ねた.

目次

現地探索

和歌山南西部を旅していたこの日.小野坂隧道田辺市中芳養からみなべ町に抜けてきた私は,日没までわずかに時間があったので,もう一箇所寄り道してから帰ることにした.

 

みなべ町の中心部から南部川沿いの国道424号に出て上流方向に進む.400番台らしからぬ快適な2車線道路である.しかしそれは度重なる道路改良の結果らしく,現道の長橋やトンネルの手前には怪しげな旧道分岐がいくつもあった.時間の都合上,それらをスルーせざるを得なかったのは残念だ.

 

市井原橋の手前で左折して旧道に入る.幅員は1〜1.5車線程度.これぞいかにも400番台の国道である.300m先,民家を抜けたところで南部川を渡る.ここに架かる橋,その名も「高橋」が今回のターゲットだ.橋名の由来は当地付近の高幡山と思われる.

 

まずは橋上の景.

没個性的な橋に見えるかもしれない.

 

本橋の凄さは,横から見たときに初めて明らかになる.

なんとRC方杖ラーメン橋である.

 

違う角度から.

方丈構造によって,川床に橋脚を立てずして広い川幅を越えている.これは文字通りの意味でも「高橋」だ.

 

橋上に戻って,親柱.

「たかはし」「南部川」.

 

高欄.

RC製の古いものだが,特段の装飾はない.

 

そして,対岸の親柱には,

「髙橋」「昭和十三年二月竣成」!

 

私が本橋のことを知ったきっかけは,和歌山県教育庁による近代化遺産調査報告書に掲載の近代化遺産リスト 1 だったが,本橋の竣工年度については「昭和」としか記されておらず,戦前か戦後かも不明な状態での訪問となった.しかし現地にてはっきりした.高橋は,戦前製のRC方杖ラーメン橋である!

 

RC方杖ラーメン橋は,今でこそさほど珍しい構造ではないが,戦前の作は少ない.土木学会による「日本の近代土木遺産2 は,東京都あきる野市の前川橋などの紹介文で,

RC方杖ラーメンは非常に珍しい(現存は4橋?)

としている.その「4橋」は

で,高橋は含まれていない.つまり,「非常に珍しい」RC方杖ラーメン橋が,ここ和歌山県みなべ町にもひとつ現存していたわけである.

 

しかもしかも,高橋の橋長は,現在の道路管理者であるみなべ町の資料 3 によると28.0mもある.この数字をそのまま受け入れれば,戦前のRC方杖ラーメンとしては (旧) 国界橋に次ぐ第2の橋長ということになる!!(もちろん測定方法が一致しているとは限らないので,実際は松谷橋の方が長かったりする可能性もあるが,規模が大きいことは間違いない)

 

下流側から.

昭和初期,山深い当地にこれほど大規模かつ先進的な橋が架けられた.村の人々の驚きは相当なものだったのではないか.新形式の橋ということで,県の土木局としても挑戦的な工事だったかもしれない.そんな想像ができるのも,現存しているからこそである.

 

橋の下からも観察したかったが,既に陽は落ちているし,何より駐車スペースが (私有地を避けると) 中途半端な場所しかなかったので,長居することなく現地を後にした.このような時に二輪車が羨ましくなる.ともかく,(旧) 卒塔婆隧道に始まったこの日の探索旅は,これにて終了となった.

考察

後日机上調査を試みたが,本橋について詳しく述べた資料は見つけられなかった.当時としては非常に先進的な構造を長大スパンに採用した経緯や,どのような人物が設計・施工に携わったのか,また工事の経過など,非常に気になるところではあるのだが.

 

本橋は国道424号の旧道上に架かるが,国道に認定されたのは架設から40年以上が経過した昭和57年 (1982年) のことで,それ以前は大正12年 (1923年) 4月認定の和歌山県龍神南部線の一部であった 4龍神龍神温泉で知られる山奥の村で,現在は田辺市の一部となっている.

 

私は当初,この県道を車道化するために造られたのが,高橋を含む「旧道」ではないかと考えた.しかし実際はそうではなかったらしい.というのも「道路の改良」に掲載された当県道の「改良」による経済効果を分析した記事 5 に,昭和9年11月竣工と記されているからだ.この「改良」が車道化を指していることは,文中の

本路線改良前、みなべ町龍神村間に於ける物資の輸送は貨物自動車に依るは不可能にして殆ど牛馬車或ひは人肩に依りたるも道路の改良に依り、貨物自動車に依る物資の輸送可能となる

の記述から明らかである.要は,高橋架設の3年以上前の時点で,既に車道は開通していたのだ.

 

そこから高橋架設に至る経緯はよくわからない.ありそうな説としては,

  • 車道開通当初の橋が何らかの原因で廃止されたため,現在の高橋が架設された
  • 当初の道 (現道から見て旧々道) は南部川を渡らず右岸沿いに東進しており,そのバイパスとして高橋を含む道 (旧道) が造られた

のふたつが思い付く.個人的には後者のような気がしている.現在の地図でも,右岸沿いに旧々道らしき細道が描かれているからだ.そのあたりは旧版地図を取り寄せればはっきりすると思われるが,そこまではしていない.

 

高橋にRC方杖ラーメン構造が採用されたのは,川の中に橋脚を建てたくなかったからに違いない.何しろ県下にも記録的な被害をもたらした,昭和9年室戸台風の記憶が鮮明な時代である.ただし長大スパンに最も適した構造である鋼橋としなかったのは,この時代特有の事情があったものと思われる.昭和13年は長期化した日中戦争の最中で,徐々に顕在化していた鋼材不足の中,鋼材は軍事最優先で利用され,本橋のような地方の事業の取り分は非常に限られていた.和歌山県下においても,当時の国道15号いわゆる大和街道は国直轄で改修が進められていたが,13年になって,鋼材節約のために紀ノ川に架かる岩出橋の更新が中止されたという事例がある 6.こうした世情ゆえに大鉄橋の架設は困難で,必要な鋼材の少ないRC橋とする必要があったのだろう (しかもラーメン橋ならば鋼製の支承も要らない).長大RC橋の典型であるアーチ構造を採用しなかったのは橋長の問題か,あるいは河川阻害を避けたかったのか.

 

以上,調査としては甚だ不完全だが,みなべ町の知られざる奇橋をレポートした.もっと注目されて然るべき土木遺産ではないかと思う.

参考文献

  1. 和歌山県教育庁・編 (2007) "和歌山県の近代化遺産 : 和歌山県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書" p. 255,和歌山県教育庁
  2. 土木学会土木史研究委員会・編 (2005) "日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選―" pp. 94-95 / 138-139 / 148-149 / 240-241,土木学会.
  3. みなべ町建設課 (2020) "みなべ町個別施設計画" 2022年3月1日閲覧.
  4. 森脇義夫 (2009) "和歌山の街道5 南部街道と御坊街道" 和歌山県立文書館だより,第26号,pp. 2-6,和歌山県立文書館,2022年3月1日閲覧.
  5. 守屋秋太郎 (1937) "道路改良の經濟的效果に就て(五)" 道路の改良,第19巻1号,pp. 135-140,道路改良会,2022年3月1日閲覧.
  6. 道路改良会・編 (1938) "和歌山縣大和街道政修工事續行?" 道路の改良,第20巻3号「地方通信」,pp. 157-158,道路改良会,2022年3月1日閲覧.