交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

富山県庄川の旧橋群【2/3】高岡大橋 (2021. 8. 5.)

北陸の大動脈・北国街道.道路改修のために内務省直轄で架せられた長大トラス橋を訪ねた.

目次

はじめに

富山県庄川に架かる旧橋シリーズ第2弾.新庄川橋から上流側5.5km,射水市から高岡市にかけての (旧) 国道8号上に内務省直轄で建造された大橋をレポートする.

現地探索

金沢城跡の陸軍弾薬庫隧道ほか,石川県の交通遺産を訪ねた翌日,最初のターゲットとして選んだのが本橋だった.宿を発った後,高岡駅前のカーシェアステーションで車を借りた私は,市街地を東に進んで庄川左岸の県道に入り,高水敷を活用した庄川緑地の駐車場に車を停めさせてもらった.

 

まずは駐車場のある左岸下流側から.

高岡大橋,昭和13年 (1938年) 竣工 1,近代土木遺産Cランク 2

 

手前の高水敷部分はプレートガーダー.

桁の側面が途中で不自然に変化しているのは,手前側の数径間が拡幅されているためだ.拡幅の時期は定かではないが,橋詰の交差点に右折レーンを設ける目的とみられる.

 

それより向こうの2径間のみ,当初の桁が露出していた.しかし愚かなことに横からの近景を撮り忘れていた.きちんと記録していたのは桁裏だけであった.

びっしり並んだリベットが良い.右側 (上流側) に増築されているのは,こちらも後補の歩道橋である.

 

低水路部分.

堂々たる5連の曲弦ワーレン型トラス桁で,一気に対岸に渡る.高水敷がプレートガーダーであることも含め,昭和初期における標準的な長大道路橋の構造だ.

 

上流側.

全面的に歩道橋が添加されており,当初の桁はやや見づらい.「歴史的鋼橋集覧」1 によると,この歩道橋は昭和49年 (1974年) の作.

 

さあ橋を渡ろう.まずは左岸上流側の親柱.

御影石の立派な親柱に,「昭和十二年三月竣功」の額.ただ,この年月は後述のように上部工の工場製作が完了した時期であり,現場架設・床板・舗装および高欄の施工も含めて橋自体が完成したのは翌年6月である.

 

下流側は,

「たかおかおおはし」.

 

トラスの近景.

この重厚感がたまらない.現代の対面通行にも耐える広い幅員はさすがの旧国道である.おびただしい数の鋲頭も良い.

 

渡りきって右岸からの振り返り.

左岸側と違って,橋詰までトラスが続いている.当地のすぐ南で和田川が合流するという地形ゆえ,右岸の高水敷は狭いのだ.

 

こちらの親柱には,

「高岡大橋」「庄川」.

 

下流側から.

鉄骨を幾重にも組み合わせた大きな鉄橋だが,黄緑色の塗装のおかげで,景観に溶け込んでいる.

 

堪能したところでもう一度橋を渡り,車に戻った.1時間足らずの探訪だったが,青空駐車場に停めた車の中は灼熱地獄になっていた.

机上調査

富山県の県庁所在地・富山市と,県下第2の都市たる高岡市.両市を経由する北陸道 (北国街道) は,その重要性から明治18年 (1885年) の道路法制定当時から国道に指定されており (明治国道20号→大正国道11号→現国道8号),往来も盛んであった.しかしながら,歴史ある道の宿命と言うべきか,時代が進み交通の主役が車両に移ると,幅員・線形ともに支障を来すようになった.その状況について,内務省の大島太郎技師 3 は以下のように記している (強調は筆者による.以下同様).

元來兩市間は車馬の往来最も頻繁なるにも係はらず幅員極めて狭小にして自動車の行違ひ絶對に不可能なる箇所多く且屈曲甚しく鐵道との平面交叉は實に7箇所を算し,中にも富山市より射水郡小杉町に至る間の如きは通行の車馬は國道に依らず縣道を迂廻して辛うじて運轉を辨じたものである。

 

そんな富山・高岡間の国道を改修するという動きが,富山県によって企画された.白根竹介・第22代富山県知事の時代である.計画は幅員10mのバイパス新道を建造するというもので,このうち富山市から射水郡小杉町にかけては,県によって昭和7年 (1932年) に着工した.一方,残る小杉町から高岡市区間は,昭和8年 (1933年) より国直轄で改修することとなった 3

 

高岡大橋は,国直轄区間のうち,庄川を渡る地点に架せられた長大道路橋で,一連の事業のハイライトを飾るものであった.なお改修前の国道は,1kmほど上流の大門町 (現・射水市大門) に架かる大門大橋で庄川を渡っていたが,当時は大門大橋ではなく「雄神橋」を名乗っていたため,これに代わる高岡大橋も,工事中は「雄神橋」と呼ばれていた 3

 

先に引用した大島技師による仮称・雄神橋,すなわち高岡大橋の工事概要 3 によると,昭和9年度事業として下部工事,昭和11年度からの4ヶ年継続事業の一部として上部工事が進められることとなった.設計は内務省土木局,工事を担う出張所 (内務省高岡国道改良事務所) の長は件の大島技師,現場施工を主として進めたのは同じく内務省中村鶴蔵技手であったことが記録されている.

 

下部工事は内務省直営で施工され,昭和10年 (1935年) 5月1日に高水敷 (鈑桁部) の橋脚から着手された.残るトラス部の橋脚と両岸橋台は,洪水の多い時期を避け,また労働力が整うのを待ったために同年8月頃から施工された.1年足らずの作業に延べ77,194人の労働力が費やされたという.

 

一方の上部工事は請負に付された.現地では銘板の類は見つけられなかったが,大島事務所長の著した工事概要 3 によると,施工者は東京市の石川島造船所.創業嘉永6年 (1853年) の老舗造船所であるとともに,かの有名な餘部橋梁や勝鬨橋などの名橋を建造したことでも知られている.請負契約は昭和11年 (1936年) 10月1日に締結され,同年度の冬期間に工場製作を済ませたのち,12年6月から現場組立が開始された.現地にあった「昭和十二年三月竣功」の額は,桁の工場製作が完了した時期を指すものとみられる.なお,長大トラス橋という多量の鋼材を必要とする設計ではあったものの,

契約の時期宜しく鋼材價格騰貴前なりし爲め,工作費・運搬費・架設費・塗装費一切を含め,鋼材瓲當り単價222圓にて竣工し得たるは幸である。

とされる.現場架設も石川島造船所が請負い,契約通り12年9月に竣工した.

 

残る工事は直営にて進められた.大島技師が稿を起した13年4月時点で,床板と舗装を施工中,それが終わり次第高欄設置に着手し,同年6月に完工予定とされていた.その後の詳細な経過は定かではないものの,「橋梁史年表」4 は予定通り13年6月に開通したとしている.総工費は5,306,000円 5

 

ところで,この国道改修事業については面白い資料がある.戦前・戦中の雑誌「道路の改良」の第13巻 (昭和9年),第5号から第9号にわたって連載された「北国紀行」である.著者は丹波浪人なるペンネームを用いているが,「技師」や「事務官」なる人物が随行していること,また旅の道中で各県の知事と面会していること,そもそもこの雑誌自体が内務省の息がかかったものであったことから,内務官僚とみて間違いなさそうだ.その彼が新潟県から京都まで北陸道 (北国街道) を旅し,道路改良の進捗や経由地での小話などを面白おかしく報告・批評したエッセイが「北国紀行」であり,その第3回 6富山県に焦点を当てている.

 

それによると,どうも事業への地元の理解が得られにくかったらしく,用地買収が難航したそうだ.

八年度の仕事だと言ふのに小杉の驛前ではまだ人家が移轉してゐない、進行は遲いネーと言へばK事務官は、早いとは言い惡いが此處らの人間は、ケチン坊で算盤が高いから用地の買収に惱まされる、此處で發表した價格が安いか高いかを、國境の倶利伽羅峠の改修工事場まで問合せに行く位だから、念の入つたものだ、イカニ歩くことに妙を得てゐる藥の行商人とは言ふものゝ守銭奴的根性は人の想像を許さない、と、現場の苦心を物語るのであつた。

(中略)

内務技師大島太郎君の話に依ると、沿線部落の人間は此國道を富山や高岡の人が通る道路と心得てゐるから、餘り喜んでゐないそうだ、成る程、個人經濟意識の强い連中から見ればソー感ずるであろう、確か大島村だと聞いたが、町村道の一部が新國道と爲るので其の道路敷を買収して吳れと言つて來たと聞かされ、一行は田舎式な慾張り根性に驚かされるのであつた

(中略)

國道事業は利潤を逐つて經営する私的事業とは違ふのだから、如何に守銭奴とは言へ、尠しは公共的事業の爲には遠慮しても可いであろう。

もちろん東京の官僚の個人的意見である点を割り引いて読む必要はあるが,この歯に衣着せぬ論評は楽しい.地元の態度は,いかにも未だ市井に自動車が普及していなかった時代という感がある.

 

また,当時進められていた事業は小杉町から庄川右岸の大門町までで,完工後は庄川沿いを南下して大門大橋 (当時は雄神橋) に接続することとされていた.ただし,庄川に新しい橋,すなわち今の高岡大橋を架け,対岸に竣工済みの都市計画道路に接続するという構想自体は存在したようだ.これに対し,旧道となる雄神橋を従来と同様に維持管理するように地元住民が要求していることが,「北国紀行」6 に記されている.

新架橋に依つて今の國道にある雄神橋は國道の資格を失ふので、大門町の有志は屢議會に請願したり、當局に陳情したりして雄神橋が從來と同じやうに維持されむことを運動してゐる、併し新國道を他郷の人が通る道として排斥否な歡迎しない、住民の誤つた考察からすれば雄神橋は彼等地元民だけが通る橋だから、彼等だけの支辨に依つて維持するのが當然であろう。

雄神橋はその後も県道として供用されているが,いずれにしても高岡大橋の出自は,地元からはあまり歓迎されないものだったようだ.高岡大橋の名称が工事名の「雄神橋」から変更されたのも,旧・雄神橋を擁する地元の反発があったためかもしれない.

 

なお,旧・雄神橋は昭和13年 (1938年) 2月に架換えられたものの,未だに木橋であり,例年の洪水による流出・補修が年中行事のように繰り返されたという.同年6月頃に開通した立派な鉄橋たる高岡大橋とは大違いである.雄神橋が永久橋となったのは戦後の昭和37年 (1962年) のことであり,このときに明治以前の橋名を復活させて「大門大橋」と命名されている 5

 

開通した高岡大橋は橋長435m,有効幅員7.5mの堂々たる橋で,およそ40年にわたって国道の橋として活躍した.昭和49年 (1974年) 発行の庄川5 は,同じ路線上の神通川に架かる富山大橋と並び,県下で最も交通量の多い橋であるとしている.昭和51年 (1976年) になると,国道指定は新設された富山高岡バイパスに移ったが,高岡大橋は引き続き幹線道路である主要地方道富山高岡線の橋として,今日まで現役で利用されている.庄川に架かる同世代の橋としては新庄川橋太田橋が挙げられるが,それらが幅員不足のため新橋を並行架設されているのに対し,高岡大橋は歩道橋が増設された程度で,現代の交通量によく耐えている.名実ともに高岡を代表する橋として,今後も良い年を重ねていってほしいと思う.

参考文献

  1. 土木学会鋼構造委員会歴史的鋼橋調査小委員会・編 (2002) "歴史的鋼橋集覧" 2021年12月31日閲覧.
  2. 土木学会土木史研究委員会・編 (2005) "日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選―" pp. 154-155,土木学会.
  3. 大島太郎 (1938) "國道十一號線改良雄神橋新設工事" 土木工學,第7巻8号,pp. 538-542,工業雑誌社.
  4. 土木学会附属土木図書館・編 (2008) "橋梁史年表" 2021年12月4日閲覧.
  5. 庄川編ざん委員会・編 (1974) "庄川:歴史と文化とその開発" pp. 188-189,庄川左岸右岸水害予防市町村組合.
  6. 丹波浪人 (1934) "北國紀行 (三)" 道路の改良,第16巻7号,pp. 129-144,道路改良会,2021年12月31日閲覧 (土木学会附属土木図書館によるアーカイブ).