交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

金沢城跡の石川橋 (2021. 8. 4.)

加賀藩の居城,金沢城の石川門に通じる立派な橋をレポートする.

目次

現地調査

金沢城の陸軍弾薬庫隧道の探索を終えた後,兼六園に面した石川門から城外に出た.隧道から近く,また「兼六園下」バス停にアクセスしやすいという理由しかなかったのだが,この行動によって良い橋を見つけることができた.

 

石川門を出ると,城を囲うお堀を埋め立てた県道10号を跨いで兼六園に至る.今回のレポートは,この県道を跨ぐ陸橋に焦点を当てる.しかしこの時の私は,バスの時間に気を取られていたため足早に通り過ぎてしまい,優れた意匠に気が付いた時には既にバスの中だった.少々悔やまれたが,次回以降レポートする他の諸々の探索を済ませた後,16時頃になって再びここに戻ってきた.

 

まずは日当たりの良い西側から.

巨大かつ優美なアーチ橋.過剰な装飾はなく,落ち着いた雰囲気が城跡というロケーションに合っている.充腹式であるのも現代の橋らしからぬ印象だ.

 

東側.

時間帯ゆえに逆光となってしまったが,シルエットが良い.

 

この段階で私は一切本橋に関する情報を持ち合わせていなかったので,橋の意匠や古色溢れる中柱から,遅くとも昭和初期の作,ひょっとすると大正期のものかもしれないと考えた.

 

さて,橋上へ行こう.兼六園に続く階段を登ったところが橋の南詰だ.

奥に見えるのは金沢城跡.古風な中柱やレトロ調の灯具と相まって雰囲気が良い.閑散としているように見えるのはタイミングを見計らって撮影したためであり,実際にはこの日も多くの観光客が訪れていた.

 

続いて親柱をチェックする.まずは向かって右手前 (南東).

石製の親柱に「石川橋」の銘板.金沢城の石川門に通じる橋ゆえ,自然な名称だ.ちなみに石川門自体の名称は,石を多く産出することで「石川」と呼ばれた手取川流域の「石川郡」に面していることに由来するそうだ.

 

そして向かって左手前 (南西) の親柱には,

「平成七年三月架」!まさかこの古色溢れる陸橋が平成の作とは思わなかったので,驚いた.このことについては机上調査の項で詳しく述べる.なお,対岸の残り2基の親柱についても「石川橋」「平成七年三月架」の組み合わせだった.

 

高欄と中柱.

高欄は金属製.何か名前の付いた模様の気がするのだが思い出せない.一方の中柱は親柱と同様で,上部に大きさの異なる正方形を重ねた意匠が施されている.これも一種の雁木と言えるかもしれない.

 

最後に,現地に展示されていた解説板.

橋に関する情報はないが,橋の下を潜る道路が,百間堀と呼ばれた堀を埋め立てたものであることを教えてくれている.そしてその工事が明治43年 (1910年) 頃に行われたという記述は,次節で報告する机上調査の内容とも関連する.

 

現地調査は以上.これ以降では,本橋の来歴についての調査結果を報告する.

机上調査

石川橋の意匠は,平成生まれにしては異様とも言えるほど古色蒼然たるものとなっている.もちろん観光地ゆえに景観が考慮された結果ではあるのだが,より重要な理由があることがわかった.

 

結論から述べると,現在の石川橋の意匠は,明治生まれの旧橋を忠実に再現したものだった.

(旧) 石川橋

現地調査編の最後に示した解説板にあったように,百間堀を埋め立てて道路化する工事は明治40年代に実施された.先代の (旧) 石川橋もこの道路と同時に架設された.工事は明治44年 (1911年) に完了し,同年6月に開通式が開かれている.当日のの写真が石川県内の古写真をまとめた書籍「20世紀の照像」1 p. 32 に掲載されている.同 p. 33 の解説文とともに引用させていただく.

3―百間堀道路の開通式

1911年 (明治44) 6月、開通式を終えて、完成したばかりの百間堀道路を「通り初」する石川県や金沢市の有力者たち。

この写真で注目すべきは左奥.アーチを描く門のようなものが見えるが,実はこれが (旧) 石川橋なのだ.繰り返しになるが,明治44年 (1911年) に撮影された写真である.つまり (旧) 石川橋は明治期の鉄筋コンクリート (RC) 製アーチ橋だった.日本初の RC 橋が明治36年 (1903年) 製の琵琶湖疎水の橋であることはよく知られているが,この (旧) 石川橋はそれに次ぐ古さを有するものであった.当時はまだまだ木橋や土橋が主流の時代であり, RC 橋は日本全土・明治全期を通してみても40本程度しかなかったとされる 2

 

なお,(旧) 石川橋が当初から RC 造であったことは,明治44年の建設途中の写真が残されていることからわかる.以下,同じく「20世紀の照像」1 pp. 32-33 からの引用.

2―石川橋の建設工事

百間堀の埋立てと道路化にともない、石川門と兼六園をつなぐ石川門前の橋梁工事が進められた。アーチ型の鉄筋が組まれ、桶に入れたセメントが流し込まれている。

 

次に,旧橋の外観を見てみよう.ありがたいことに,現役時代の近景写真も残されている.以下,鳥居ら (1994) 2 の写真3を引用する.

充腹式の三心アーチ.装飾は輪郭の縁取りと頂部の丸い飾り程度で,全体としては落ち着いた意匠.路面上には大きな親柱と中柱が見える.

 

もうおわかりと思うが,この意匠,現在の石川橋と全く同じなのだ.以下,(現) 石川橋の側面写真を再掲する.

2枚を見比べると,(現) 石川橋が旧橋の意匠を非常に忠実に再現していることがわかる.古色蒼然たる雰囲気も,充腹式であることも,旧橋の再現だったのだ.素晴らしい仕事だと思う.個人的には以前訪ねた鈴鹿隧道のことが思い出される.

架換えの経緯

(旧) 石川橋の架換えは,現橋の親柱に刻まれていたように平成に入ってから実施された.当該工事に関係する論文は複数発行されている 2, 3, 4 が,このうち石川県土木部職員の報告 4 は,架換えの理由として旧橋の老朽化と, 橋の下が交通のボトルネックとなっていることの2点を挙げている.特に後者は深刻だったようで,片側2車線 (合計4車線) +片側のみ歩道付きの県道が,石川橋の下では3車線がやっとの状態 (歩道は消失) であったとされる.北陸を代表する都市部,かつ観光名所ゆえに歩行者も少なくない当地においては,非常に危険な状況であったことは想像に難くない.これらの課題を解消するため,石川橋を架換え,百間堀道路を全面的に拡幅 (片側2車線+両側歩道) することが決定された.

 

一連の事業は平成元年 (1988年) に採択され,翌年度に学識経験者や地元代表者,行政関係者などからなる (新) 石川橋の設計委員会が組織された 4.その中で様々な意匠が検討された結果,最後に残ったのは以下の2案だった.以下,宮田 (1994) 4 より引用.

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第1案 (注:左図) は基本的には現在の形を継承し、表面の模様なども忠実に再現するが、アーチの半径、頂上部の厚みなどを調整し重厚な中にも明るい感じを出そうとした案である。

第2案 (注:右図) はまったく新しいデザインで、橋としての美しさ、軽快さを意図したものである。

両案について市民へのアンケート調査が実施されたが,結果は拮抗し,最終的に委員会によって第1案が選ばれた 4.どちらの案が好ましいかは人それぞれだが,個人的には委員会の決定は英断だったと思う.第2案は率直に言って没個性的な「観光地のよくある橋」であり,少なくとも私の興味が引かれなかったことは間違いない.

 

架換え工事は平成4年 (1992年) に着手された 4.旧橋は竣工から長期間が経過した明治期のRCアーチ橋という特異性を有していたため,撤去に際してコンクリートや鉄筋の解体検査が実施された.その結果,橋台部分のコンクリートの一部には雨水や地下水による劣化がみられたものの,それ以外の材料,特に鉄筋については非常に健全な状態が保たれており,用いられた材料の質の高さが明らかになっている 2, 3.また,橋の下の百間堀道路が幹線道路であることから,架換え工事に際しても昼間の通行止めが認められず,作業の大半は夜間に実施せざるを得なかったという 4.また,当然だが工事中も観光客は絶えないし,さらに当時は城内に金沢大学がキャンパスを構えていたこともあって,工期中も道路を横断する需要は大きかった.そのため仮橋が架けられていたのだが,景観への配慮が求められた結果,プレートガーダー橋を深緑に塗装して供用していたそうだ 4.都心ゆえの難工事の末,事業は平成7年 (1995年) に完了をみた.

おわりに

金沢の二大観光地,金沢城跡と兼六園を結ぶ石川橋についてレポートした.明治44年 (1911年),金沢城跡の百間堀を埋め立てた道路を跨ぐ陸橋として架けられた (旧) 石川橋は,当時の最先端技術であった鉄筋コンクリート製充腹アーチ橋だった.その後80年以上にわたって利用されたが,百間堀道路の拡幅のため,平成7年 (1995年) に架換えられた.新しい橋 (現在の石川橋) の意匠は旧橋の外観を忠実に再現したものとなっており,鉄筋コンクリートの立派なアーチ橋は,明治から大正,昭和,平成を経て令和のいまも,金沢を代表する風景として親しまれ続けている.

 

しかしながら,こうした歴史がほとんど知られていないのはもったいないとも思う.現地には百間堀の埋立てについての解説板はあったが,同時に最先端の技術と非常に質の高い材料によって (旧) 石川橋が架けられたことや,後年の架換えに際して慎重に意匠が検討された経緯については一切触れられていなかった.金沢城跡や兼六園に比べると歴史は浅いとはいえ,石川橋も金沢の近現代史において重要であることは間違いないし,また石川橋架換え工事によって江戸期の石管や瓦が出土したという話もある  4.現状は「ただの橋」として顧みられないままとなっているが,ぜひともこのような歴史が周知されてほしいと思う.

参考文献

  1. 本康宏史・監 (2003) "20世紀の照像 : 石川写真百年・追想の図譜改編版" 能登印刷出版部.
  2. 鳥居和之,上田信二,西本俊晴,川村満紀 (1994) "80数年経過した鉄筋コンクリートアーチ橋(石川橋)の解体調査" コンクリート工学年次論文報告集,Vol. 16,No. 1,pp .983-988,日本コンクリート工学協会,2021年11月17日閲覧 *1
  3. 鳥居和之,佐藤政勝,上田信二,川村満紀 (1995) "明治時代に建設された鉄筋コンクリートアーチ橋における鉄筋の特徴と腐食性状" コンクリート工学年次論文報告集,Vol. 17,No. 1,pp. 889-894,日本コンクリート工学協会,2021年11月17日閲覧 *2
  4. 宮田正弘 (1994) "寺町今町線シンボルロード整備事業――80年の歴史を持つ「石川橋」の架け替え" 都市と交通,No. 31,pp. 44-47,日本交通計画協会,2021年11月17日閲覧 *3

*1:国立国会図書館デジタルコレクションによるアーカイブ

*2:国立国会図書館デジタルコレクションによるアーカイブ

*3:日本交通計画協会によるアーカイブ