交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

金沢城跡の陸軍弾薬庫隧道 (2021. 8. 4.)

加賀藩が居を構えた金沢城.石垣に掘られた特異な煉瓦隧道を訪ねた.

 

加賀百万石と謳われた加賀藩の居城,金沢城.現在は石川県を代表する観光地として有名だが,明治から第二次大戦にかけては陸軍省の所有となっていた.今回訪ねた近代土木遺産は,その時代に造られたものだ.

 

城内には精鋭として知られた陸軍第9師団の司令部や兵舎が置かれ,本丸付近には弾薬庫が設けられた.兵器庫は城外の出羽町に建設されていたが,弾薬については不慮の爆発のリスクを考慮し,市街地への影響の少ない城内に貯蔵したものとみられる 1.そして驚くべきことに,陸軍は弾薬庫への通路を造るため,城の石垣に穴を開けた.現代的な観点から見ると遺産の破壊とも言える暴挙だが,文化財保護法などまだなかった戦前の話である.その「穴」こそが,2008年に土木学会によって「日本の近代土木遺産」に登録された「陸軍弾薬庫隧道」だ 2

 

本隧道は金沢城という有名観光地のど真ん中にあるが,隧道の内部が立入禁止とされていることは事前調査でわかっていたから,人目の少ない時間帯を選ぶ必要があった.そこで私は,平日の開園直後に訪ねることに決めた.

 

2021年8月4日,私は本業の大学院生として,国際会議での研究発表を控えていた.コロナ禍の影響で,当初予定されていたアメリカではなくオンラインでの開催だったのだが,スケジュールは現地時間のままだから,日本時間では深夜となる.私の発表セッションは現地時間 (サマータイム) の3日14時,つまり日本時間の4日朝4時開始だった.セッション自体は2時間程度で,これが当日最後のセッションだったので,朝6時頃からは自由時間となる.この早起きする機会を,陸軍弾薬庫隧道の探索に充てることにした.

 

前日夕方の特急サンダーバードで金沢に移動し,金沢城近くの,かつ会議中に回線が途切れないよう有線LANのあるホテルを選んで宿泊した.早々に眠りにつき,翌朝は3時に起きて国際会議に出席.自身の発表をなんとか完遂し,一息ついてホテルの朝食を摂ってから行動を開始した.時刻は朝7時半.真夏ゆえ,外は既に十分明るい.

 

金沢には何度も来たことがあるが,いつも能登方面や富山方面への中継地点として通り過ぎるだけだったから,金沢城を訪ねるのは初めてだった.兼六園金沢城が隣接していることすら知らなかったくらいである.そんな具合だから,園内の地理はさっぱりわからない.とりあえず,宿に近い鼠多門から入園した.

 

城内に入った私を迎えてくれたのは,

玉泉院丸庭園.第3代藩主・前田利常が作庭した日本庭園で,明治期に失われたものを近年復元したそうだ.眺めているだけで心穏やかになる.池に架かる橋を間近で観察したかったが,進入路にはいずれも柵が置かれていたので,立入は自粛した.

 

池の向こう側に回ると,様々な世代の石垣が保存されていた.

さすが「石垣の博物館」と呼ばれる金沢城.圧巻の光景だ.

 

1つ上の写真の位置から左手の「いもり坂」を進む.肝心の隧道の所在はまだわからないが,地図を見ると,本丸の方面に「戌亥櫓跡」なるものがあるらしい.櫓ということは高い場所にあるはずだから,そこからならば隧道も探しやすいだろう.そう考え,急坂を登って「鉄門石垣」(写真は撮りそびれたが,これも見事な石垣だった) から櫓跡に入った.

 

櫓跡は期待通り,城内を一望できる展望台のようになっていた.その一角がやや不自然に切り取られたような形になっており,気になって近付いてみると,

見つけた!夏草に埋もれて見にくいが,迫石風のコンクリートを等間隔に配した意匠は事前情報通りだ.どうやらこの戌亥櫓こそが,陸軍に穴を開けられた石垣だったらしい.

 

目の前の斜面から進入しようかとも考えたが,下草が生い茂っていて足元が少々不安だったので,反対側に回った.三十三間長屋の横を通って櫓の下に出ると,さほど労せず穴を見つけることができた.

陸軍弾薬庫隧道,竣工時期不明,近代土木遺産Bランク 2.石垣の中というロケーションもさることながら,煉瓦アーチの外面のみをコンクリートで覆い,等間隔に迫石風のコンクリートブロックを差し込むという特異な形式となっている.構造上の理由もあったのかもしれないが,モノトーンの石垣の中で赤煉瓦を目立たせないという景観上あるいは軍事上の配慮が大きかったものと思われる.

 

坑口の手前にはまるで目隠しのように大きな木が植えられている.近代土木遺産の悪口を言いたくはないが,本隧道は石垣を破壊して造られたものだから,隠したくなる気持ちもわからなくはない.一方で,現地にはこのような解説板も設けてあった.

どうも管理者のスタンスがよくわからない.当初は隠す一方だったが,2008年の近代土木遺産認定などがきっかけで訪れる人が増え,方針転換を迫られたということだろうか.

 

「立入禁止」の看板があったような気がしないでもないが,例によって記憶が定かではない.気が付くと隧道内部に立っていた.

側壁がイギリス積み,アーチは長手積みという典型的な組積法である.コンクリートの被覆によってアーチ部分の巻き厚は判然としない.内部は水道管か何かが通っていたり,小さな倉庫が建っていたりと雑然とした印象だ.

 

既に反対側の坑口の様子は確認しているので,完抜けは自粛した.振り返って.

美しい.

 

入洞から2分後,そそくさと通りに戻った.目論見通り,誰にも見つかることなく探索を終えることができた.最後に東側からの遠景.

わかりにくいが,右奥の木の付近に土盛りがある.そこが隧道の坑口だ.この石垣に穴を開けるとは,戦前という時代,それも軍事目的でなければ許されない暴挙だとは思う.しかしそれでも,一度石垣を崩した後に積み直すという手間がかけられているはずだ.単なる切り通しとしなかったのは,国の史跡として景観に配慮したのか,それとも石垣を強固な防護壁として維持したかったのか.

 

本隧道は煉瓦と鉄筋コンクリート (RC) が併用されており,建築材料が煉瓦 (および石) から RC に変化する過渡期の設計という印象を受ける.日本では明治から大正にかけ,それまでの木材に替わって耐火性に優れた煉瓦が用いられてきたが,大正12年 (1923年) の関東大震災で大きな被害を受けたことにより,徐々に RC に置き換えられたとされる.推測に過ぎないが,本隧道の設計にあたっては,内部は火薬の誤爆にも耐え得る耐火性・堅牢性が求められたために伝統的な煉瓦が採用され,坑口付近には最新技術たる RC が実験的に用いられたのではないかと思われる.

参考文献

  1. 石川県教育委員会・編 (2008) "石川県の近代化遺産 : 石川県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書" p. 115,石川県教育委員会
  2. 土木学会土木史研究委員会・編 (2008) "石川県 - 日本の近代土木遺産" 2021年11月11日閲覧.