交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

大府市北崎町・刈谷市泉田町の清水橋 (2021. 7. 24.)

尾張国三河国を隔てる境川.廃止が惜しまれる名橋を訪ねた.

目次

探索記録

東岡崎駅前の三橋鉢地坂隧道居林橋から続く.この日最後に訪ねたのが,大府市刈谷市にまたがる清水橋だった.

 

居林橋の探索を終えた私は,名鉄電車で知立駅へ向かい,駅前のカーシェアステーションで車を借りた.県道244号で二級河川境川を渡る直前に左折し,左岸沿いの道に入る.ほどなくして未舗装路となったので面食らったが,1kmほど先で東海道新幹線の下を潜ると,清水橋は目前だ.

 

18時20分.日没間近の最上の時刻に,探索を開始した.

予習していた通り,バリケードで封鎖されている.親柱も4基全てがバリケードと刈払いされていない藪に埋もれており,文字情報は確認できなかった.

 

下流側から.

清水橋,昭和32年 (1957年) 竣工 (出典: 橋梁史年表).弧を描く桁,それに合わせたように欠円アーチ形の開口部を有する橋脚,やや無骨なコンクリートの高欄,全てが美しい.周囲に広がるだだっ広い農地には似合わないほど凝った意匠である.

 

予想外なことに,通行止め――実質的に廃橋――となっているこの橋の付近で,なにやら話し声が聞こえる.西日に目を細めながら様子を窺うと,対岸にバンが止まっており,小学生くらいの男の子とそのお父さんの姿が見えた.

 

私は悩んだ.人目がなければバリケードを越えて渡橋しようと思っていたのだが,さすがに子供の前でそんな行動は憚られる.かと言って別の橋に迂回していると日没を迎えてしまう.どうしたものかと思案していると,対岸にいた親子は,いつのまにか橋の上に立っていた.

わかりにくいが写真左手,橋上に人影が写っている (モザイク加工済み.以下の写真も同様).向こうにも当然バリケードはあるのだが,華麗にスルーしたらしい.私の驚きをよそに,親子はのんびりと釣り糸を垂らし始めた.

 

これなら私が躊躇する理由はない.詳しくは書けないが2分後,私も橋上の人となった.

 

高欄.

コンクリート製だからやや無骨だが,正方形の窓を連ねた軽快な意匠となっている.橋への進入路の角度が急すぎるためか,大型車が接触したとみられる損傷も見受けられた.

 

上流側を向くと,

このくらいの至近距離を新幹線が通っている.新幹線の車窓からもよく見えるはずだ.しかしその振動は本橋の老朽化,そしていささか早い引退の一因となった可能性がある.ここは名古屋に近く,列車の本数も多いのだ.

 

渡って西詰からの振り返り.

短い間隔で規則的に配された中柱も良い.

 

西側のバリケードは,私が最初に通過した東側よりも厳重で,脇がまったく甘くなかった.以下の写真はバリケードの外側から.

橋の上で釣りを楽しんでいる親子は,釣り道具を持った状態でここを越えたはずだが,ずいぶん豪胆なものだ.そんなことを思いつつ,私も金網にぶら下がるようにしながら脱出した.作業用手袋を持ってきておいてよかった.

 

右岸から.

嗚呼,美しい.「鳥が翼を広げたような形」とは大阪市の天満橋を関係者が表現した言葉だが,本橋も同じ言葉で形容したくなる.しかも本橋は5径間だから,まるで鳥の群れである.

 

存分に堪能した後,例によって気が付くと対岸の車まで戻っていた.駅に引き返して車を返却し,長かった一日が暮れた.

考察

本橋の来歴について,大府・刈谷の両市誌を含む複数の文献を当たってみたのだが,一切の記述が見当たらなかった.ただ,本橋架設前の昭和25年 (1950年) の地理院航空写真を見ると,同じ位置に橋が写っており,先代の橋があったことは間違いない.

左が令和2年 (2020年) の航空写真,右が昭和25年 (1950年) の航空写真で,それぞれ中央の十字の位置が清水橋.

 

さらに昭和25年の航空写真からは,以下の図に赤線で示すような道路の存在が見て取れる.

地名は昭和25年当初のもの.家々が立ち並ぶ大府町北崎を出た道は,清水橋で境川を越え,まっすぐ東に進んで逢妻川 (境川支流) を渡って旧泉田村の集落に達している.地図の範囲外だが,北崎より西の大府は名古屋や知多半島方面の道の交わる要衝であり,泉田村から東に進めば東海道の池鯉鮒宿 (知立市) となる.

 

おそらく,この道は古くからの当地における主要幹線道路だったのだと思う.今は素性がわからないから「この道」と呼ぶしかないけれど,当時は「〇〇街道」あるいは「〇〇道」のような由緒正しき名称があったはずだ.そう考えると,現在の清水橋の装飾性にも納得がゆく.地域にとって非常に重要な橋だったのだ.

 

さて,土木学会の橋梁史年表によると,現在の清水橋は昭和32年 (1957年) に架けられた.旧橋からの架換えの理由は定かではないが,この時代の橋梁の架換えといえば,真っ先に思い当たるのは昭和28年 (1953年) に日本を襲ったテス台風である.当ブログでも何度も言及してきたこの台風は,紀伊半島から大府市南方の知多半島に再上陸し,高潮等によって愛知県内だけでも死者72名,行方不明者3名,負傷者1711名という甚大な被害をもたらした (出典: 愛知県,2019).断定はできないが,現在の清水橋も,テス台風からの復旧のために架けられた可能性は十分にある.

 

その後,昭和39年 (1964年) に東海道新幹線が開業する.清水橋自体はその経路からわずかに逸れているが,それより東の古道は大きな影響を受けたようだ.上の図で示した古道のルートと,最新の航空写真を重ね合わせてみよう.

特に顕著なのは図の中央の逢妻川との交差地点で,新幹線の開通によって古道の橋は失われている.その北に小さな橋が見えるが,おそらく代替路として架けられたものだろう.

 

また,逢妻川境川の間 (写真中央やや左) の古道の道筋も失われ,現在は清水橋だけが取り残された格好となっている.ただしこれは新幹線工事によるものではなく,もっと最近の出来事のようだ.

左は平成19年 (2007年),右は平成2年 (1990年) の航空写真である.平成2年時点ではっきりと残っている古道が,平成19年時点で失われていることがわかる.おそらく耕地整理の結果だろう.高度成長期以降,下流側は国道155号,上流側は愛知県道244号と車道改修が進み,交通の主役はそれらに移って久しかったのだ.

 

それにしても廃止が惜しまれる.確かに桁や下部工にはコンクリートの剥落が見受けられ,自動車を通すには少々心許ない.人道橋として復活を,と思うが,それほどの需要も今はないのだろう.看板の内容によると,探索日時点で封鎖から約3年が経過している.残念ながら現状は荒れゆく一方で,今後修繕される見込みは薄い.むしろ安全面を考慮して,早晩撤去される可能性もある.優れた意匠を有し,戦後の大府・刈谷両市の発展を支えた土木遺産として,保存・整備が望まれる逸品である.