交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

鉢地坂隧道 (2021. 7. 24.)

東海道の経由地である愛知県岡崎市本宿町と,太平洋に面した蒲郡市を結ぶ鉢地峠.明治から長年にわたる住民の請願の末に造られた立派な隧道を訪ねた.

目次

探索記録

東岡崎駅前の三橋の探索を終えた私は,明代橋近くのカーシェアステーションで軽自動車を借りた.国道1号豊橋方面に進み,「本宿町沢渡」で右折して南に進路を変える.ここからは国道473号となり,険しい山越えの先,太平洋に面した蒲郡市に至る.

 

4kmほど進むと,

驚くほど深い掘割の奥に,立派な隧道が口を開けている.

 

本隧道の探索は少々難しい.というのも,現在は公共交通が通じていないから車で来るしかないが,駐車スペースが乏しいのだ.私は事前に目を付けていた通り,本宿側の北行き車線にある軽自動車がギリギリ入る路肩を利用した.しかし私は本宿側から来たから,その路肩は反対車線にある.そのためいったん隧道を通り抜け,転回する場所を探した.下り坂の途中に林道の入口があり,そこを利用しようと思っていたのだが,運悪くジムニーが出てくるところだった.仕方がないからさらに数キロ進み,カーブで道が拡幅されている箇所を利用して無理やり転回した.もう一度坂を登って隧道を抜け,ようやく車を停めた.このときばかりは小回りの効くバイクが羨ましくなった.

 

改めて,岡崎側坑門に正対.

鉢地坂隧道,昭和8年 (1933年) 竣工,近代土木遺産Cランク 1.戦前から都市近郊のリゾート地として開発されてきた蒲郡への観光道路にふさわしい豪華な坑門工.

 

アーチ環.

凸凹の迫石を規則的に配した瀟洒な意匠.

 

壁面.

線刻と洗い出しで凝った装飾が施されている.後で示す南口と比べて劣化が進んでいることだけが残念だ.扁額を収めるスペースはあるが,失われたのか,当初からなかったのかは定かでない.

 

存分に坑門を堪能したところで,内部探索を開始する.

本隧道の幅員は4.5メートル.普通車同士のすれ違いにも気を遣うほどの狭さである.歩道などあるはずもない.しかし隧道の向こうに駐車スペースはないし,歩行者通行止めというわけでもないから,歩いて通り抜けることにする.

 

現在は三河湾オレンジロード等のバイパスが開通しているが,この道の交通量も決して少なくはない.幅員狭小,歩道なし,しかも距離は468メートルもあるため,廃隧道とは違った意味で恐ろしい進軍となった.車に轢かれるのが怖いという以上に,私が歩いていると車同士の離合が困難となるから,片側の車を何度も隧道内で足止めしてしまい,申し訳ない気持ちになった.

 

しかし徒歩で入洞した意味は確実にあり,本隧道の大きな特徴である内部構造の変化を記録することができた.入口付近は先ほど見たようにコンクリート覆工だが,少し進むと,

なんと素掘りにモルタル吹付けである.400番台とはいえ現役国道,それも2車線の現道の素掘り隧道があるのは珍しい.その先では再びコンクリートの巻立てとなり,次の区間に照明がないと思えばまた素掘りである.

こんな具合にコンクリートの巻立てと素掘り吹付けを繰り返し,最終的に蒲郡側は,

比較的長いコンクリート覆工となる (照明がない部分は素掘りだったかもしれない.そこが定かでないくらい頻繁に内部構造が変化するのだ.).現代のトンネルのように全面覆工としなかったのは予算の都合であろう.ここは今でこそ国道473号だが,その指定は平成5年 (1993年) になってからであり,それ以前は県道として扱われていた.また工事が着手された昭和6年頃というと昭和恐慌の真っ只中である.このような設計をケチ臭いと評するのではなく,厳しい財政状況の中で造られた隧道が,竣工から87年を経た現在も,当初の姿をとどめて現役で供用されていることに注目すべきだろう.もちろん後補と思われるモルタル吹付けも十分に仕事をしているのだろうが.

 

8分かかって蒲郡側坑口から脱出した.洞内で車を待避する時に何度か側壁に触れてしまったため,手が真っ黒に汚れていた.振り返って.

岡崎側と同じ意匠の立派な坑門だが,こちらの方が状態が良い.迫石,線刻,洗い出し,笠石上のデンティルなど,唯一無二の装飾が多数施されているものの雑然とした印象はない.個人的に「ツボ」なのは,迫石の外側をアーチ型の線刻が囲い,両サイドの三角形の一辺がアーチ線に沿うように曲線を描いていることだ (伝わるだろうか?).3本の「線」が並んでいるわけだが,それらすべてが優美なアーチであり,綺麗に平行しているという統一感が良い.

 

蒲郡側にはもうひとつ見逃してはならないものがある.坑口から30メートルほど坂を下ったところの東側に,

「鉢地坂開鑿碑」と大書された紀念碑が建っている.その下に銘板が埋め込まれているのも見える.足元は膝くらいの高さの草薮だが,無理やり駆け上がるようにして接近し,銘板を記録した.

隧道開鑿までの歴史と関係者名簿が刻まれている.

 

碑の内容について触れる前に探索記録を閉じておこう.蒲郡側のより引いた位置から.

本宿側と同じく深い掘割の奥に隧道がある.限られた工費の中,切通しとする区間と隧道とする区間の長さや位置関係も綿密に計算されたに違いない.

 

これにて引き返し,もう一度肝を冷やしながら隧道を抜けて車に戻った.

歴史調査

以下,開鑿碑や文献の語る本隧道の歴史を記しておく.特記なき限り出典は開鑿碑.

 

鉢地峠を越える道筋は近世以前から存在し,四方を山と海に囲まれた蒲郡と,東海道の経由地である本宿 (現・岡崎市本宿町) を結ぶ唯一の交通路として利用されていた.蒲郡からは太平洋の海産物や塩が運ばれ,本宿からは貴重な燃料である薪や炭が運ばれたという.しかしながら峠越えの道は険しく,地元住民は長年道路改修を望んでいた 2

 

明治36年 (1903年),当時74歳だった蒲郡の西宝地区 (現在の蒲郡市三谷町西畑付近?) の総代・尾崎市右衛門が隧道開鑿を提唱し,時の愛知県知事・深野一三に嘆願書を提出する.その後も老体に鞭打つように促進運動を続けるが,なかなか事業化がなされない.地形の険しさゆえに(当時としては) 長大な隧道が必要であり,富国強兵が叫ばれていたこの時代,軍事的需要に乏しいこの道を県の事業とするのは難しかったのかもしれない.結局尾崎は大正6年 (1917年),着工を見ずして88歳でこの世を去っている.どんなにか無念だったろうと思う.

 

尾崎の死から3年後の大正9年 (1920年) 4月,(旧) 道路法の施行に合わせて,鉢地峠越えの道が県道切山蒲郡停車場線として府縣道に認定された.とはいえ,これまたすぐに隧道開鑿とはいかない.次に事業が大きく動いたのは昭和2年 (1927年) のことで,愛知県会において6000万円を投入する20ヶ年の道路整備計画が採択された.その中には犬山と蒲郡という古くからの観光地と都市部を結ぶ3つの路線,すなわち県道名古屋犬山線,県道三谷豊橋線 (三谷は蒲郡の東,現在の蒲郡市三谷町),そして鉢地峠越えの県道切山蒲郡停車場線の改良工事が含まれていた 2.ここに来てようやく,隧道の開鑿が決定されたわけだ.

 

昭和5年 (1930年) 2月,県による実地測量が行われ,翌年1月に蒲郡側から着工.およそ3年の月日をかけて昭和8年 (1933年) 12月,ついに隧道を含む延長12kmの新道が開通した.風光明媚な新道は,日本随一の観光地にあやかって「新箱根観光道路」と命名され,本宿と蒲郡を結ぶ観光バスも走り出した 2.尾崎市右衛門の嘆願書提出から30年,地元住民の促進運動の賜物と言える.

 

戦争などを経てバスは廃止され,またバイパスとなる三河湾オレンジロード三ヶ根山スカイラインの開通によって通る車も少なくなった 2 というのが一般的な見方である.しかし私が現地で見たのは,鉢地坂隧道を含む現道の需要は依然として少なくなく,地域の生活道路として多数の車が行き交っている光景だった.

 

なお,以上で述べたような鉢地坂隧道の歴史について,特に尾崎の活動に焦点を当てて解説する映像コンテンツが蒲郡市によって公開されている 3.短い動画だが尾崎の肖像,隧道の設計図,工事中の貴重な写真なども収録された史料であり,道路も含めて世間が便利になった現代では忘れられがちな先人の功績をわかりやすく,かつ (市史や書籍と比べて) アクセスしやすい形で伝える稀有な作品といえる.

参考文献

  1. 土木学会土木史研究委員会・編 (2005) "日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選―" pp. 136-137,土木学会.
  2. 愛知県教育委員会生涯学習文化財保護室・編 (2005) "愛知県の近代化遺産:愛知県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書" p. 182,愛知県教育委員会生涯学習文化財保護室
  3. 蒲郡市秘書広報課広報広聴担当 (2012) "プレミアム映像-蒲郡の偉人 - 愛知県蒲郡市公式ホームページ" 2021年10月12日閲覧.