交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

岡崎市の殿橋と桜城橋と明代橋 (2021. 7. 24.)

徳川家康の故郷として知られる愛知県岡崎市.その中心地・東岡崎駅前に仲良く並ぶ3本の橋を訪ねた.

目次

導入

名古屋駅から名鉄快速特急で30分.東岡崎駅は,愛知県のほぼ中央に位置し,徳川家康の故郷としても知られる岡崎市の中心駅である.

 

駅の北には一級河川矢作川支流の乙川が流れている.市役所や岡崎城址 (岡崎公園),国道1号は駅の対岸にあり,両岸を連絡する需要は相当なものである.それゆえ,400mに満たない距離に3本もの橋が架せられている.

今回は,これら新旧の3橋を西から順に探索した.

殿橋

探索記録

殿橋は岡崎公園の東に架かり,3橋の中で最も長い歴史を持つ.まずは南詰から.

風格たっぷりの広い幅員は,かつて中央に路面電車が通っていたことに由来する.現在もこの道は電車通りと呼ばれている.

 

上流側から.

殿橋,昭和2年 (1927年) 竣工,近代土木遺産Bランク 1土木学会選奨土木遺産 2.優美な弧を描く多連の桁が美しい.

 

桁裏と下部工.

橋の中央部の主桁の間隔が狭くなっているのは路面電車の荷重に耐えるためであろう.橋脚は多柱式で,多連ゆえに四角い窓が規則的に連なる景観が面白い.「日本の近代土木遺産1 は平成元年 (1989年) に橋脚が河川構造令に合わせるために改修されたとしているが,当初の姿が気になるところだ.切石積みの橋台も見事.

 

下流側に回る.探索日は連休中ということもあってか,河川敷には多数の人や車が集まり賑わっていた.

増築などもなく,上流側・下流側とも当初の姿を露にしているのが素晴らしい.

 

親柱.

高さ2メートル以上の巨大な石造りの親柱に「殿𣘺」「昭和二年七月架設」「とのはし」「昭和二年七月架設」(異書体) と刻まれている.

 

渡って右岸の下流側から.

背後に建つグレーの愛知県西三河総合庁舎との調和も良い.

 

ところで,戦前頃までの大きな橋の袂には,川に向かって開口部が造られていることがある.おそらく雑排水を川に流すためのものと思われるが,本橋も例外ではなく,上の写真を撮ってから桁下に回ってみると,

なんと橋台に石アーチが口を開けていた.

 

接近して.

8個の石が綺麗な真円をつくっている.表面はこぶ出しに仕上げ,各石の周囲には段を設けるという凝り具合で,加工には相当の手間がかかったのではないかと思われる.ここは橋台の足元で,橋の上からは決して見えない場所である.にもかかわらずこれほどに凝った意匠が施されているのは,やはり当時の関係者の意気込みが現れていると言えるだろう.

 

穴の内部.

時代を考えると当然のことだが,石アーチは坑口付近だけで,奥はコンクリート覆工となっている.下水道が整備された今となっては無用の存在らしく,水の気配はなかった.

 

最後に,右岸上流側からの殿橋の全景.

欠円アーチ型の弧を描く桁が12径間も連なる壮観な橋.

机上調査

以下,特記しない限り出典は市史 3

 

当地に先代の橋が架けられたのは明治38年 (1905年) のこと.時代を考えれば十中八九,木橋だったと思うが,補修を繰り返しながら20年に渡って利用された.なおこの橋が当時から「殿橋」という名称であったことは,現在の橋が架けられる以前に発刊された「道路の改良」8巻2号 4 などにその名が登場することから明らかである.本橋の北詰西側にある岡崎城址に因んだ名称であろう.

 

殿橋の架換えは大正13年 (1924年) に立案された.橋の南側は,その3年前に開業した東岡崎駅に通じる停車場街道であることから,幅員が12間 (約21.6m) に改修されていた.北側も新国道 (現・国道1号) に面していることから6間 (約10.8m) に拡幅されており,さらに12間に拡幅する計画も存在した (大正15年2月には市の小瀧喜七郎助役が県に早期着工を陳情している 4).にもかかわらず殿橋は3間 (約5.5m) の幅員,しかも橋上には路面電車 (当時の岡崎電気軌道,後の名鉄岡崎市内線) が通っており,文字通り交通のボトルネックとなっていた.そのため大正13年6月,市当局が県に対し架換えを申請した.

 

工事は大正15年 (1926年) 2月12日に着手された.総工費は24万1523円,そのうち5万円は岡崎電気軌道の寄付だったという.橋長62間 (約111.6m),幅員9間 (約16.2m),当時最新技術だった鉄筋コンクリート製の橋で,同月の「道路の改良」5 は「岡崎市の門戸を飾る最新型の殿橋」として取り上げている.当初は翌年4月から5月までの完成が予定されていたが,やや遅れて昭和2年 (1927年) 7月15日に竣工.菅生神社の花火大会に合わせて19日に竣工式が挙行され,周囲は花火と渡り初めを見ようとする群衆で身動きも取れないほどの賑わいを呈したという 6.以下にその竣工式の様子を記録した貴重な古写真 7 を引用する.

手前側も対岸も恐ろしいほどの人だかりである.道路が全国的に整備された現代においては,新しい橋の開通でこれほどの賑わいを呈すことはないだろう.当時の市民が如何に殿橋の架替えを待ち望んでいたか,そして当時最新鋭の鉄筋コンクリートの橋がどれほど物珍しかったかが窺える.

 

そんな殿橋は竣工94年を経た今も,幹線道路の一部として現役である.上の古写真からわかるように,外観も大きく変わってはおらず,特に立派な親柱は今も健在だ.ただし高欄だけはやや異なっており,当初はおそらく石造りで,橋脚上に小さな柱が立つリズミカルな意匠だったようだ.支間上の開口部には鋳鉄のグリルがはめ込まれていたようにも見える.また,平成28年 (2016年) には長寿命化のため,単純桁同士を連結して連続化するという補修がなされている 7.そのため,現在の構造は当初とは異なる連続桁橋となっているが,基本的な外観は維持されている.

桜城橋

桜城橋は,殿橋のひとつ上流側に架かる人道橋.まずは左岸下流側から.

後で竣工時期を示すが,本記事でレポートする3橋の中では段違いに新しい.人道橋だから車道橋と単純に比較することはできないものの,径間数は一気に減って,スマートな4径間連続桁となっている.直線の連続桁は平凡な印象になりがちだが,桁の側面の板張りがアクセントとなっている.

 

下部工.

さすがに現代的だが,橋脚には石積み風の模様が刻んである.橋台の表面も同様に仕上げてあった.

 

路面に上って,左岸の親柱.

「さくらのしろはし」そして「令和二年三月竣工」.当ブログで初めて取り上げる令和生まれの物件である.

 

橋上.

路面は市内のヒノキ材を用いたという板張り 8.幅員19m,有効幅員16m 8 という人道橋としては異例の幅広さである.しかし,殿橋の付近には人が集まって賑やかだったのに対し,こちらは通行人が少ない.写真を撮るのには都合が良いが,幅員の大きさだけが際立ってしまい,寂しい印象は否めない.

 

渡って右岸の親柱.

「桜城橋」「乙川」.最近の橋らしからぬ,伝統的な縦長の「柱」となっている.文字が路面方向ではなく橋詰方向に向かって掲げられているのも古風で良い.

 

最後に上流側.

構造としては現代的な連続桁橋だが,路面や桁側面の板張り,木製の高欄と親柱,そして石積み風の橋脚など,風情のある良い橋だと思う.

 

なお,探索日時点では閑散としていた桜城橋について,市は橋上に飲食店などを整備して都市公園とすることを計画しているようだ 8.一応今年10月末までは橋上工事をしないとされているが,今のようにヒノキの香を感じながらのんびり歩くことは,いずれ難しくなるかもしれない.

明代橋

探索記録

次の橋は桜城橋から180mほど上流の地点に架かる.まずは下流側から.

明代橋,昭和12年 (1927年) 竣工 9.殿橋の10年後に架けられた橋で,こちらも現役橋としては屈指の古さである.

 

後付けの歩道部によって当初の構造が視認しにくいが,桁裏を見てみると,

桁の継ぎ目がはっきりと見える.両側の橋脚から張り出した片持ち桁で別の桁 (吊桁) を支える,私の大好きなゲルバー橋である.

 

上流側.

こちらも歩道部が増設されており,ゲルバー橋らしい円弧型の当初の桁が視認しにくいのが残念だ.一応歩道部の桁側面もそれらしい形にはしてあるが,明らかにゲルバー構造とは異なり,少々目立ちすぎているようにも思う.横桁は歩道部に合わせて左右に延長されており,また橋脚も開口部が塞がれているようにも見える.こういった改修がなければ近代土木遺産に認定されていたのではないかと思う.

 

路面に上り,親柱.

銘板の類のものは見付からず,掲げていた痕跡すらなかった.机上調査編で述べるように当初の親柱ではないのだが,だとしても文字情報は欲しかったところだ.

 

橋上.

橋の両詰が交差点となっており,車道部は3車線となっているが,それでも十分な広幅員.奥にはゲルバー橋特有の路面の継ぎ目も見える.

 

渡って左岸側から.

主径間と側径間を合わせて7径間.10年前の殿橋は12径間だったが,ゲルバー構造を採用することで径間数 (橋脚数) を減らしている.

 

こちらも桁裏に回ってみると,

桁の継ぎ目部分が視認できた.

机上調査編

殿橋と同じく,明代橋にも先代の橋が存在した.大正5年 (1916年) 製の木造ハウトラス橋だった 10 が,昭和7年 (1932年) に水害で流出したとされる 9.同年7月1日から2日にかけて,県下では低気圧の接近と前線の影響によって大雨が降り,矢作川 (乙川の合流先) 流域に大きな被害を発生させたという記録 11 があるから,おそらくそれによるものであろう.

 

現在の明代橋はそれから4年後の昭和11年 (1936年) に着工された 12.当初は年内の完成が見込まれていたが,翌年9月まで遅延した 12.その工事について「道路の改良」12 は以下のように伝えている.

昨春總工費七萬六千九百圓を投じて着工昨年末竣工の豫定で工事を急いでゐたが、建築材料の急騰に加へて川底からは岩盤が現はれ四苦八苦の難工事に陥り、遂に今日まで竣工の遅延をみたものである

昭和11年 (1936年) は二・二六事件が発生した年で,翌年には盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まっている.上で引用した「道路の改良」当該号の巻頭には「国民精神總動員に就て」という,いま発刊すれば内閣総辞職ものの論説が掲載されているが,そんな時代である.おそらく建築材料の急騰というのは,鉄筋に用いる鋼材のことであろう.戦前から戦時中にかけての日本が鉄鋼不足に悩まされていたことはよく知られている (金属類回収令や武智丸など).そんな難工事の末に完成した明代橋について,同じく「道路の改良」12 は,以下のように喜びに溢れた記述を残している.

鐵筋コンクリート、ゲルバー式、延長百五十五メートル、幅員十一メートル、舊東海道が傳馬町から明大寺町に迂回してゐた往時から架橋されてゐたもので岡崎最古の橋が最新のモダン橋となつたわけである

 

「最新のモダン橋」として造られた明代橋の当初の姿を記録した貴重な写真が,Wikimedia commonsにある (データソースなどは画像のリンク先を参照).

Okazaki-Myodaibashi-3

一番目を引くのは親柱.殿橋にも負けず劣らずの立派なもので,灯具もある.文字は読めないが銘板らしきものも見える.高欄も石造りで,開口部には鋳鉄の格子.おそらく歩道部の増設の際に失われたものと思われるが,現在の高欄も鉄格子の意匠は引き継いでいることがわかる.

 

今年で竣工84年を迎えた明代橋.外観を維持しながら長寿命化のために構造が改修された殿橋とは対照的に,本橋は構造はおそらくほぼ当初のまま (桁の継ぎ目が鋼材で補強された程度) でありながら,外観が改修されてしまったことが惜しまれる.部外者の放言だが,片側だけでも歩道部分を撤去して,「ゲルバー橋らしい」当初の外観が復元できないものかと思う.せっかく隣に人道用の桜城橋が出来たのだから.

参考文献

  1. 土木学会土木史研究委員会・編 (2005) "日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選―" pp. 136-137,土木学会.
  2. 土木学会選奨土木遺産選考委員会 (2021) "殿橋 | 土木学会 選奨土木遺産" 2021年19月9日閲覧.
  3. 新編岡崎市史編さん委員会・編 (1991) "新編岡崎市史" 4 (近代),pp. 1086-1087,新編岡崎市史編さん委員会.
  4. 道路改良会・編 (1926) "岡崎市の國道新設" 道路の改良,第8巻2号「地方通信」,p. 89,道路改良会,2021年10月9日閲覧.
  5. 道路改良会・編 (1926) "岡崎市の門戸を飾る最新型の殿橋" 道路の改良,第8巻3号「地方通信」,pp. 117-118,道路改良会,2021年10月9日閲覧.
  6. 道路改良会・編 (1927) "殿橋竣工式盛大に擧行さる" 道路の改良,第9巻8号「地方通信」,pp. 72-73,道路改良会,2021年10月9日閲覧.
  7. 全日本建設技術協会 (2016) "⑨90年の歴史を持つ近代土木遺産 「殿橋」の長寿命化工事" 2021年10月9日閲覧.
  8. 岡崎市都市基盤部公園緑地課公園活用係 (2021) "桜城橋 | 岡崎市ホームページ" 2021年10月9日閲覧.
  9. 愛知県教育委員会生涯学習文化財保護室・編 (2005) "愛知県の近代化遺産:愛知県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書" p. 238,愛知県教育委員会生涯学習文化財保護室
  10. 土木学会附属土木図書館・編 (2008) "橋梁史年表" 2021年10月9日閲覧 *1
  11. 国土交通省 (2006) "河川整備基本方針 矢作川水系 矢作川水系流域及び河川の概要" 2021年10月9日閲覧.
  12. 道路改良会・編 (1937) "愛知縣岡崎市の名橋竣工す" 道路の改良,第19巻10号「地方通信」,p. 138,道路改良会,2021年10月9日閲覧.
  13. 内務省土木試験所・編 (1939) "本邦道路橋輯覧" 第4輯,p. 126,内務省土木試験所,2021年10月9日閲覧.

*1:藤井郁夫(1992) "橋梁史年表 BC-1955" 海洋架橋調査会,および,藤井郁夫 (2000) "橋梁史年表&世界の長大橋(CD-ROM版)" を元に藤井郁夫氏による改訂が加えられた平成20年1月版のデータを利用して作られたデータベース.