交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

高島市の高岩橋 (2021. 7. 17.)

滋賀県北西部の安曇川に架かるポニートラス橋を訪ねた.

目次

探索記録

北海橋の探索を終えた私は,国道477号を西に進み,途中越の北口から国道367号に入った.鯖街道を踏襲する道路だが全面的に改良されており,適度なワインディングとアップダウンのある楽しいドライブとなった.街道の宿場町として栄えた朽木村 (現・高島市朽木) に入ると,国道はそれまで並行していた安曇川を離れてさらに北へ進むが,私は「山神橋」交差点で右折し,琵琶湖に向かう安曇川沿いを進んだ.目指すポニートラス橋はこの川に架かっている.

 

「山神橋」から1.5kmほど進んだところで右折すると,

見つけた.交通量は少ないので車は手前の左側に寄せて停め,歩いて探索を開始した.

 

接近して.

高岩橋,昭和32年 (1957年) 竣工.私の大好きな,左右のトラス材が上端で結合されていないポニートラス橋だ.

 

向かって右側手前の斜材には銘板が掲げられていた.

「1957年12月 滋賀縣建造 建示(1955)二等橋 製作 汽車製造株式会社 材質 SS-41」.建示は設省 (現・国土交通省) の道路橋方書の略であろう.汽車製造は明治期に設立された鉄道車両メーカーだが,道路橋も製造していたようだ.SS-41は普通鋼の種類だそうだ.

 

さて,渡ろう.

構造としては鉛直材付きのワーレントラス.高欄はやけに新しいが,ストリートビューで見ると平成30年 (2018年) に補修工事が行われているので,その際に交換されたものと思われる.

しかし無粋なガードレールなどにせず,背の低い落ち着いた色の柵に留めたことは称賛に値する.平成29年 (2017年) に発表された「景観に配慮した道路附属物等ガイドライン1 を踏まえた施工だろうか.

 

渡って東詰からの振り返り.

戦後とはいえまだまだリベットの時代.びっしり並んだ丸い突起が心地良い.

 

本橋の親柱は東側にのみ残っていた.そのうち北東側には何の文字も刻まれておらず,後年に交換されたものと思われる (写真略).一方の南東側には,

「たかいわはし」と刻まれていた.ただ,これが当初の親柱かについても定かではない.やや新しく見えなくもない.

 

下流側から.関西電力荒川発電所の設備 (取水堰?) が迫っているので眺めにくいが,その柵の隙間から写したのが次の一枚だ.

トラス部分の前後を挟むプレートガーダーも,トラス材と同じ色で塗られている.律儀な印象だ.

 

その関電の設備だが,橋の中央付近から眺めてみると,

ループを描く魚道が見えた.らせん型魚道と呼ばれるものだそうだ.まるでプールのウォータースライダーのようで面白い.

 

河川敷まで降りれば下流側からも眺められたかもしれないが,やや遠そうで,次の予定もあったのでやめておいた.

机上調査

ここからは机上調査編として,高岩橋の歴史について概説する.特記しない限り出典は「朽木村史 通史編」2 である.

 

高岩橋のルーツは明治28年 (1895年) までさかのぼる.朽木村から長尾・南市を経て琵琶湖西岸の西近江路 (現・国道161号) に至る「県道朽木線」を整備するにあたり,安曇川の対岸に渡るため,初代・高岩橋が架けられた.この道筋は現在も滋賀県道23号として残っている.ただし初代の橋は木橋であり,その翌年の明治29年 (1896年) に早くも流出した.同年9月,滋賀県では明治29年琵琶湖洪水と呼ばれる大水害が発生しており 3,これが原因と考えられる.新しい高岩橋が架けられたのはその2年後,明治31年 (1898年) になってからであったという.次に引用する写真は「朽木村史 通史編」2 p. 199 に掲載の木橋時代の高岩橋だ.

撮影時期は不明で,写っているのが初代の橋か2代目の橋かは定かではないのだが,橋の下を筏が通っているのは注目すべき点である.朽木は古くから木材の産地として発展し,安曇川を利用した筏流しは戦後まで続けられたという.

 

高岩橋に次の変化が訪れたのは大正10年 (1921年) のこと.京都電燈株式会社が安曇川沿いに荒川発電所 (現・関西電力荒川発電所) を建設し,その取水堰堤である高岩ダムが高岩橋の真下に造られた.同じ年,高岩橋は鉄の橋に架け換えられている.「朽木村史 通史編」2 p. 191 には貴重な当時の写真が掲載されているので引用する.

これを見る限り,3代目・高岩橋は単径間のプラットトラス (非ポニー) だったようだ.橋の架換えにあたっての経緯は定かではないが,ダム建設に関連した事業であったことは間違いないだろう.

 

3代目の橋は頑丈で,比較的長く使われた.昭和28年台風13号 (テス台風) は朽木村のほとんどの橋を流出させたが,本橋や山神橋などの10本だけは無事であったという.その後昭和32年 (1957年),現在の高岩橋に架換えられることになるのだが,翌年,旧橋は10kmほど上流の栃生集落に架かる「栃生橋」として再利用された.次に引用するのは「朽木村史 通史編」2 p. 244 に掲載の栃生橋の写真である.

撮影時期からしておそらく竣工記念の写真である.栃生には荒川発電所と同じく京都電燈によって建設された水力発電所があり,3代目・高岩橋の移設工事も電力会社による事業だった可能性がある.当時すでに京都電燈は解散していたから,実際に事業にあたったのは関西電力だろうか.そう思って写真を見てみると,前列右から2番目の男性は当時の関電社長・太田垣士郎に見えるような気もするが,気のせいかもしれない.なお,現在は栃生橋も架換えられており,2代目・高岩橋は (おそらく) 現存しない.

 

昭和32年 (1957年) に架けられた現・高岩橋は,平成7年 (1995年) に三操橋 (みくりはし) を含むバイパスが建設されるまで,県道として供用されてきた.次に引用するのは「朽木村史 通史編」2 p. 247 に掲載の写真である.

ニートラスとなった高岩橋を渡っているのは江若交通バス.同社は昭和8年 (1933年) に朽木村から琵琶湖西岸の安曇駅 (江若鉄道) への路線を開通させ,これが現在もJR湖西線安曇川駅への路線として残っている.鉄道駅を持たない朽木村にとっては必要不可欠な交通機関であり,高岩橋もそれを支えてきた.

 

長い歴史を持つ高岩橋.現在はバイパスの建設によって旧道となり,県道の指定も解除されている.しかし南西の安曇川右岸に広がる朽木宮前坊の集落や,橋の西詰に造られたゴルフ場に通じる道路として,引き続き重要な役割を果たしている.本編で示したように近年も補修が実施されており,今後も長く活躍することが期待される.

参考文献

  1. 国土交通省 (2017) "景観に配慮した道路附属物等ガイドライン " 2021年9月12日閲覧.
  2. 朽木村史編さん委員会・編 (2010) "朽木村史 通史編" 高島市
  3. 滋賀県土木交通部流域政策局 (刊行年不明) "明治29年琵琶湖洪水水害概要|滋賀県ホームページ" 2021年9月11日閲覧.