交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

鉄拐山隧道 (2021. 6. 26.)

神戸市西部の鉄拐山を貫く,威風堂々とした隧道を訪れた.

 

(2022. 3. 25.) 考察を追記しました.

 

(2022. 12. 1.) 追記です.今年の改修工事によって,鉄拐山隧道の優れた意匠は失われてしまったようです. 参考: 「やまぶき」様のツイート

残念無念.もう少しなんとかならなかったのか.せめて扁額だけでも残してほしかった.

 

目次 

探索記録

垂水区の福田橋の探索を終えた私は,「垂水東口」バスターミナルから山陽バスに乗り込み,「朝谷東公園」で降車した.バス停の名前になっている公園には猫がいたが,近寄って来てはくれなかった.

急斜面にへばりつくような住宅街を下り,大通りに出た.兵庫県道21号神戸明石線,いわゆる旧神明道路である.ここから東に進んでゆくと,

見えてきた.

 

接近して.

鉄拐山隧道,西口.巨大かつ装飾的なピラスター,極太のデンティル,アーチ環のスリットなど,思わず「格好いい」と口にしてしまうほど見事な坑門である.

 

西口の扁額には,

左書きで「懐古松風」と刻まれている.意匠を凝らした坑門意匠ではあるが,その基本的な構成要素,つまりアーチ環・笠石・ピラスターなどは古典的なものを踏襲している,といった意味の「懐古」だろうか.「松風」は言うまでもなく吉兆だが,隧道西側には松風台という住宅地がある.この地名がいつ頃生まれたのかは定かではないが,無関係ではないだろう.そして「懐古松風」の右には1文字分のスペースが空いている.典型的には揮毫者の名前や竣工時期が刻まれている場所だが,風化で読み取れなくなったのか,それとも最初から何も刻まれていなかったのかは定かではない.

 

そして最も存在感のある坑門工は,

中世の城門を思わせる,巨大なピラスター.外灯風の飾りまで設えてある.土台部分は大小の三角形を積み重ねたような形で,これも独特だ.

 

さて,中に入ろう.この道には一応両側に歩道はあるのだが,隧道内では人ひとり分程度の幅まで狭まる.それだけ歩行者は少ないのだろう.一方車は絶え間なく通過しているので,懐中電灯を点灯し,歩道からはみ出ないように慎重に歩を進めた.

内部は全面コンクリート覆工である.おそらく当初からそうだったとは思うが,数度にわたって改修工事は行われているらしく,どのあたりが当初の覆工かは判然としなかった.

 また,側壁には看板を収めるようなスペースが数カ所で設えてあった.

写真は道路の北側だが,反対側にもあった.過去には何か掲げられていたのだろうか.

 

東口に抜けて,振り返る.

こちらも意匠は西口と同様.扁額には,

左書きで「鉄拐山隧道」.こちらもその右に1文字分のスペースがある.

 

引いた角度から.

威風堂々とした坑門をしっかり目に焼き付けてから,現地を後にした.1.5kmほど歩いて須磨駅に向かい,JRで帰路についた.

考察

本隧道には謎が多い.竣工時期について,「平成16年度道路施設現況調査」は昭和22年 (1947年) としている.扁額が左書きであることから戦後の竣工としても不自然ではないのだが,昭和22年 (1947年) というと朝鮮戦争すら始まっていない第二次大戦後の混乱期だったはずだ.その時期にこれほど凝った意匠の隧道を造るだろうか,という疑問が残る.

 

そもそも本隧道を含む旧神明道路の建設についても,複雑な経緯があったようだ.本記事を執筆するにあたり,私は「兵庫県百年史」「新修神戸市史」「明石市史」を調べたが,昭和8年に開通した神明国道 (国道2号) に関する記述はあっても,旧神明道路にはまったく触れていなかった.ただ,「いそしず の ライナーノート」さまによる弾丸列車構想に関する緻密な調査 1 は,旧神明道路昭和16年 (1941年) に着工した軍用放射道路 *1,通称「弾丸道路」の一部だったとしている.軍部主導で開かれた道路だからこそ調査が難しく,県史や市史が触れていないという可能性はある.しかし一方で,軍事目的で造られた道路とすると,鉄拐山隧道はやはり過剰なほど装飾的に思われる.

 

さらに,これも前述の調査の受け売りだが,「山陽電気鉄道百年史」3 によると,山陽電鉄の前身となった「神明急行電鉄」は大正9年 (1920年),神戸から明石に至る鉄道路線を計画し,免許を申請した.同文献によると,そのルートは以下の通りだったという.

神戸側から、湊川公園下~【中略】~月見山山麓武庫離宮下(トンネル)~下畑~神戸商大南麓~【中略】~明石駅前(明姫電気鉄道と連絡)

武庫離宮,つまり須磨寺の下には現在,ここで話題にしている旧神明道路須磨寺隧道が穿たれている.また下畑というのは,鉄拐山の西側の地名である.つまり神明急行は,旧神明道路にかなり近いルートで計画されていた.上のルートには鉄拐の地名は出てこないが,武庫離宮下から下畑に直線的に至る (「急行電鉄」だけに曲線を減らすことは至上命題だったという) には鉄拐山を潜る他ない.従って,鉄拐山隧道の計画は,ここに端を発すると考えられる.

 

なお,神明急行の免許は若干の計画変更を経て認められたものの,昭和2年 (1927年),神戸・明石間を結ぶ海沿いの路線を既に開業していた兵庫電気軌道もろとも宇治川電気に吸収合併されたことで,計画倒れに終わっている 3.内陸部を走る上述ルートの路線が着工したのか,またどこまで工事が進んでいたのかなどは定かではない.ただ,そのルートが「弾丸道路」に活用された可能性は高いだろう.

 

そんなわけで,結局のところ,鉄拐山隧道はいつ誰が着工したのか,という根本的な疑問は解決に至っていない.神明急行が計画し,その後軍が計画を引き継いで検討あるいは着工した隧道を,兵庫県 (あるいは神戸市?) が受け継いで完成させた,というのはありそうなストーリーだが,戦後の混乱期にしては意匠が凝り過ぎているようにも思う.もっと夢のある可能性として,例えば大正末期頃に神明急行が造った,あるいは造りかけたものを兵庫県が完成させたのが昭和22年で,扁額はその時に掲げられた,という説も考えられる.

 

謎の多い本隧道だが,坑門工が立派かつ独特であることは確かだった.同じ路線上の東隣にある須磨寺隧道も凝った意匠の坑門を有していたのだが,それを覆い隠すような近年の改修の結果,当初の意匠は上部にわずかに露出するのみとなっている.

鉄拐山隧道についても内部の改修は進んでいるようだが,坑門については今後どうなるのだろうか.願わくば,外観を大きく変えないまま供用し続けてほしいものである.

考察追記 (2022. 3. 25.)

鉄拐山隧道を含む旧神明道路について,その着工を報じる記事 4昭和16年 (1941年) 9月の「道路の改良」に掲載されているのを見つけた.曰く,この道路は兵庫県が「三部制の善後措置」として計画した,神戸港と明石を結ぶ放射道路「明石線」であり,昭和16年8月13日,須磨寺遊園地で起工式が挙行された.この計画に鉄拐山隧道が含まれていることは,

【明石線】は工費六百十萬圓、延長一五・六キロ、幅員一一米、コンクリート舗装、神戸市天上川附近を起點に武庫離宮前から須磨公園下に至り、鐵拐山を約四六〇米のトンネルで抜け、終點は明姫國道に繼がる明石郡林崎村小久保である

の記述から明らかだ.

 

残念ながら,その後の工事経過については定かではない.既に戦時中であり,なかなか順調に進まなかったという可能性も十分ある.また,それより前に存在した神明急行電鉄の野望がどこまで活用されたのかも不明である.しかし,現在の鉄拐山隧道が,戦前に兵庫県が計画・着工したものあったことはやはり間違いなさそうだ.

参考文献

  1. いそしず (2013) "神戸の山中に眠る弾丸列車構想-新神戸駅と謎の軍用道路-【第六章】: いそしず の ライナーノート" 2021年8月21日閲覧.
  2. 神戸市文書館 (刊行年不明) "神戸市文書館 神戸歴史年表" 2021年8月21日閲覧.
  3. 山陽電気鉄道総合企画部・編 (2007) "山陽電気鉄道百年史" pp. 74-82,山陽電気鉄道
  4. 道路改良会・編 (1941) "播州の放射道路着工す" 道路の改良,第23巻9号「地方通信」,pp. 94-95,道路改良会,2022年3月25日閲覧.

*1:昭和39年 (1964年) には「神明放射道路」と称する道路が開通している 2 が,これは鉄拐山より西側の名谷伊川谷町区間,いわゆる第二神明道路のことである.