神戸市西部の垂水区.国道の橋として大正末期に架けられ,戦争や震災を経て今も利用され続けるアーチ橋を訪ねた.
神戸市の中心地であるJR三ノ宮駅から西へ9駅,垂水駅にやってきた.3駅先はもう明石市である.駅から国道2号に出て東に進むと,まもなく福田川を渡る.
左奥に見えている親柱を見ると,
灯具や銘板は改修されたものとみられるが,大正15年という,国道橋としては屈指の古さであることがわかる.なお他の3本の親柱の銘板は「福田橋」,「ふくだはし」,「福田川」であった.
さて,橋の手前 (西) で左 (北) に折れ,横から眺めてみよう.
福田橋,大正15年 (1926年) 竣工,近代土木遺産Cランク 1.福田川の河口近くに架かる,2径間のRC充腹アーチ橋である.輪石と大きな要石が目を引くが,縁欠きした切石積みの土台の上にドーム型の石を積み,そこからまっすぐ高欄の上まで貫通しているかのような橋脚の意匠も面白い.側面の洗い出し模様も含め,全体として装飾に富んでいる.
高欄と橋脚上の装飾.
北木石を加工したものだそうだ 2.高欄の隙間の鉄格子は交換されたものに見える.
違う角度から.
順に北東・南東・南西から.大正末期,国際貿易港である神戸と明石・播磨を結ぶ「神明国道」の一部として架けられた 3 本橋は,95年を経た今も,ひっきりなしに自動車を通し続けていた.
上の写真にも写っているが,橋の南東側の橋台には,工事関係者の名を刻んだ銘板が掲げられていた.
残念ながら間近で見ることは叶わなかったが,中央付近に「山本廣一」,そして左から3番目に「請負者 鹿島精一」の文字が読み取れる.後者は東海道本線の丹那トンネルなどの難工事を完遂したことで知られる,当時の鹿島組 (現・鹿島建設) 組長である.一方前者は兵庫県の技師で,昭和2年 (1927年) 10月の「道路の改良」に掲載の「神明國道福田橋架設工事の概要」2 を著している.同記事は,福田橋の意匠について,次のような経緯を述べている.
抑々神明國道は國道本来の使命以外に其の沿線は明媚なる風光と豊なる史蹟とを以て著し、空氣は温和にして四時遊覧に適す。是等の點に於て本國道は本邦國道中唯一のものと謂ふても敢て過言に非ず。依て國道改築に伴ひ架設すべき本橋の構造の選定に當りては、沿道の風致に應はしき觀姿を與ふることに意を注ぎ、堅牢にして高尚優雅なる拱橋 (注 : アーチ橋のこと) を採用するに至れり。
さらに橋の構造や工法なども詳細に記している.竣工から1世紀近くもの間,戦争や阪神大震災を経てなお交通の大動脈を支え続ける本橋が,どのように造られたのかを雄弁に物語る文献である.
なお,同記事の掲載された「道路の改良」第9巻10号の巻頭には,福田橋の当初の写真が掲載されている.以下,引用する.
現状の写真と見比べても,ほとんど違いがない.現状は親柱上の灯具がややシンプルになったことと,橋詰の手前にせり出した柱と高欄が失われているくらいだろうか.後者はおそらく沿道の開発に伴って撤去されたのであろう.
また,私は現地にてこんなものを見つけた.
平成12年 (2000年) の改修に際して,地元の支援があったことを示す銘板が掲げられていた.本橋が地域の宝として大切に保護されてきたことが窺える.
アーチの根元からも鑑賞したかったのだが,存外難しかった.一か所だけ進入路は見つけたが,道路脇の護岸に設えられた水道関係者用の梯子を登る必要があり,また人目も多かったので諦めた.