交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

国道422号 大石バイパス旧道の橋梁群 (2021. 6. 13.)

富川橋の探索からの帰り道,大石バイパスの旧道で見つけた素敵な橋梁群をレポートする.

目次

概要

大津市大石富川町の富川橋を訪れたこの日,帰りは往路で走った国道422号の現道・大石バイパスではなく,その旧道を辿ることにした.単なる気まぐれだったが,道中では小規模ながら味のある橋を見つけることができた.本稿ではそれらの橋を探索順に,北から南の方向でレポートする.

諸井橋

最初に通ったのは富川トンネルの旧道で,進入路はここ.

北から来て,左折した.

 

しばらくは1.5車線ほどの幅の道が続いていたが,この道を通る車はよぼど少ないらしい.休憩していると思しき一台の車が道路の中央に鎮座していたのには閉口した.幸いクラクションを鳴らすまでもなく運転手が気付いて道を開けてくれたが,ずいぶんのんびりしたものだ.

 

旧道に入ってからおよそ1.5kmで,信楽川の左岸から右岸に渡る橋に到着した.

コンクリート製の古色溢れるグレーの高欄と,真っ赤なプレートガーダーの対比が瑞々しい.桁は最近塗装されたばかりなのかもしれない.

 

富川橋と同じく河川占有許可の掲示があり,

諸井橋という名前が判明した.「滋賀県の近代化遺産」1 によると,昭和2年竣工とのこと.思ったよりも古い橋だった.

 

渡って振り返る.

親柱の上にひし形が載っているのが面白い.

 

狭い道だがダンプが通るらしく,路面は荒れていた.雨の後ということもあり,水たまりと泥濘みがひどい.そしてなお悪いことに,車の排気ガスに誘われたであろう虻のような虫が大量にまとわりついてくる.そんなわけで私はさっさと車内に避難してしまい,これ以上の写真は撮れなかった.しかし親柱に何か書かれていたかどうかくらいは確認すべきだった.虫のいない時期に再訪したい.

 

この後も旧道はしばらく続き,橋も2本ほどあったが,いずれも特に惹かれず写真も撮らなかったので,レポートは省略する.

久保橋 (甲賀市信楽町宮尻のコンクリート橋)

現道に復帰すると,またすぐに左への分岐が現れた.

北西から来た現道は「かさ神橋」「桶井橋」という2本の橋で信楽川をやり過ごすが,旧道は川の右岸に沿って進んでゆく.そのため旧道に橋などはないはず,と思いながらも,一応旧道をトレースすることにした.

 

入ってすぐのところで右を向くと,

可愛らしいコンクリート橋が架かっていた.渡った先は急勾配を上って現道に合流する.

 

正面から.

微妙な幅員だ.軽トラなら通れるが,普通車はやや厳しいかもしれない.欄干も必要最低限で,ともすれば沈下橋のようにも見える.私道かと思ったが,奥にはガードレールや標識が見えるから,一応公道ではあると思う.

 

この橋の素性はよくわからないが,バイパスが出来る前からこの位置に橋があったことは確かだ.地理院の航空写真を見てみると,

左が最新版,右は1963年の航空写真. 十字の位置が本橋で,1963年当時から今の位置に橋が架かっていることがわかる.もっとも1963年当時の橋が今の橋と同じものかどうかはわからない.架換えられている可能性もある.

 

(2022. 3. 16. 追記) 「全国道路構造物マップ」によると,本橋は「久保橋」,昭和47年 (1962年) 竣工だそうだ.

 

なお,同じ場所にはこんなものもあった.

この道が国道だった時代の遺物.朽ち果て具合に味がある.

幕間 美谷橋〜栗林橋の旧道

次の旧道分岐はこの位置.

先ほどと同じく旧道は信楽川の右岸に沿って進むため橋はないが,一応トレースしておこうと思って進入した.

 

しかしこの区間はなかなか酷い状態だった.ドラレコ映像がこちら.

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元々狭い上に,ほとんど車が通らないのか草木が道路にまで伸びており,さながら藪漕ぎだった.地元の軽トラがたまに通るくらいの道と思われる.なんとか普通車でも無傷で抜けられたが,おすすめはできない.

郷城橋

一気に2kmほど飛んで,次はここから分岐する旧道.

ここから南方向の現道は,信楽川を「新郷城橋」「新武士谷橋」の2本で渡る.「新」ということは旧橋がある.上の地図でも,すぐ東側の旧道に2本の橋が架かっていることがわかる.

 

旧道に入ってすぐのところに架かっているのが,本節でレポートする郷城橋.この橋の一番の見どころは,高欄の意匠である.

アーチ型の開口部を連ねている.決して珍しい意匠ではないが好ましい.

 

ただその高欄も,相当傷んでいた.上の写真でもコンクリートの表面が剥げている部分がわかるが,

こういう状態の箇所もあった.ぶつけた車があったのだろうか.

 

親柱は南西の1本を除いて残存していた.

順に南東,北西,北東.「郷城橋」「ごうしろはし」そして最も重要な竣工時期は「昭和十年三月竣功」だろうか?

 

最後に横から.

武士谷橋

郷城橋からさらに南に進むと,

予期せぬ通行止めが現れた.もちろん看板の向こうに見えるのが武士谷橋である.よほど橋が老朽化しているものと思われる.

 

ちなみにここに来るまでに,通行止めを予告するものは見当たらなかった.通常なら「この先〇m通り抜けできません」のような掲示がありそうなものだが,その必要もないほど交通量が少ないのだろう.武士谷橋の手前には朝宮浄水場があるから,そこまでは通行を許しているということだと思われる.

 

親柱は北西の1本だけ残っており,

ぶしたにはし.親柱の意匠は郷城橋と同様だった.

 

そして,横から見ると,

おそらく相当珍しい,ひし形の開口部を連ねた高欄が洒落ている.特に補修工事をしている気配はなかったが,このまま廃橋となってしまうのだとしたら勿体ない.

 

いずれにしても,通行止めになるほど老朽化した橋に車を乗り入れる気にはなれなかったので,無理やり転回して引き返し,郷城橋を再び通って現道に復帰した.

 

国道307号との交差点までにはもう1本旧道があったが,不覚にもスルーしてしまった.旧道の南端近くには橋があるので,再訪時の課題とする.この日の探索は,これにて終了した.

参考文献

  1. 滋賀県教育委員会事務局・編 (2000) "滋賀県の近代化遺産 : 滋賀県近代化遺産 (建造物等) 総合調査報告書" p. 238,滋賀県教育委員会