交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

学研都市線の鉄道遺産【後編】― 小山川架道橋・手原川橋梁ほか ― (2021. 5. 29. / 2022. 1. 20.)

前編より続く.JR学研都市線で現役で活躍する,明治期の鉄道遺産を探索した.

 

(2022. 1. 23. 追記)

小山川架道橋について,再訪につき追記しました.

目次

前編と同じく,実際の探索順序に関わらず,木津側から京橋側の順にレポートする.

薪架道橋

京田辺駅を出て天神川トンネルを抜けた学研都市線は,右カーブの先で,盛り土の上を進む.その盛り土区間の開始直後,道路との交差点に,本節でレポートする橋梁が架かっている.

 

まずは,東側.

薪 (たきぎ) 架道橋,明治31年 (1898年) 竣工 1

 

煉瓦造りの橋台は,

イギリス積みのようだ.状態は良く,美しい色を留めている.

 

西側.

こちら側には真新しい保線用通路が備え付けられていた.

 

周囲は田畑が広がる長閑な風景で,ここを通るのは人と二輪車そして軽トラくらいのものと思われる.かなり小さな橋だが,大型車が激突した跡などもなく良い状態を留めているのは,その立地によるところが大きいのだろう.

小山川架道橋

学研都市線では希少な,道路用煉瓦アーチである.薪架道橋からさらに大住駅方向に進むと,学研都市線はコンクリートの橋で,山手幹線と府道22号を結ぶ道路を跨ぐ.その先の盛り土区間で,道路と交差するところに架かるのが本橋だ.まずは西側から.

小山川架道橋,明治31年 (1989年) 竣工 1

 

すぐ脇が瓦屋の資材置場となっている.

Web上で見かける写真も「京都府の近代化遺産」の写真 1 も,全て梯子などが写り込んでいる.やや景観が悪いが,昔から変わらずこういう状況なのだろう.

 

内部.

良い景色だ.

 

中央部はコンクリートで補修されていた.

この地点で道路がわずかに屈折しているがゆえに傷んでいたのかもしれない.それにしてもコンクリートと煉瓦の隙間,そしてコンクリートの内部からも植物が顔をのぞかせており,恐ろしい生命力である.

 

東側に抜けて,振り返る.

こちらも自然の生命力を感じる様相だ.壁面の煉瓦はほとんど窺えない.時期を改めて再訪したい.

再訪 (2022. 1. 20.)

新調したカメラのテストも兼ねて再訪した.まずは東側.

冬枯れのこの日,壁面を覆っていた蔦は葉を落としており,美しい煉瓦積みがはっきりと視認できた.

 

前回は気付かなかったが,よく見るとアーチ環を構成する煉瓦のみ焼過煉瓦となっている.

次々節でレポートする (仮) 大住西上野橋梁と同じ装飾だ.

 

内部.

前回から変わらず,美しい煉瓦アーチを保っている.

 

通り抜けて西側.

冬の低い日差しのおかげで,こちらもアーチ環が焼過煉瓦となっていることに気付けた.

手原川橋梁

盛り土区間の末端近くでは,木津川支流の手原川を跨ぐ.そこに架かるのが手原川橋梁だ.

手原川橋梁,明治31年 (1898年) 竣工 1

 

川の両岸には道路が通っており,橋を間近で観察できる.橋台は,

美しい煉瓦積みである.積み方はイギリス積みのようだ.装飾的な隅石も良い.

 

対岸の京田辺駅側の橋台.

観察していると

ちょうど電車がやってきた.

 

橋桁は,

開通当初からは更新されていると思うが,びっしりとリベットが打たれており,決して新しいものではなさそうだ.大住駅側の橋台付近に銘板はあったが,読み取れなかった.

 

遠景.

住宅地の町かどに残る,明治期の鉄道遺産であった.

(仮) 大住上西野橋梁

手原川橋梁を出るとすぐに大住駅である.その先は山を迂回するように大きく右に逸れ,右に竹林を見ながら進むようになる.京田辺市の竹は,奈良市東大寺の「お水取り」で使われるそうだが,ここの竹も使われているのかもしれない.竹林が途切れると,私が子供の頃に造られた,児童館と老人福祉センターが合体した施設の脇を過ぎる.その先は左に花住坂の住宅街,右に田畑や中学校を見ながら低い築堤を進む.本節でレポートするのは,その築堤の下を潜る人道兼水路用の煉瓦アーチである.

 

本橋が位置するのは,私にとっては地元も地元,慣れ親しんだエリアである.しかし,その存在には全く気付いてこなかった.それはひとえに,本橋が歩道としては廃止され,一般の目からは隠されているからだ.

 

まず,中学校側からの景色がこちら.

中央の広い道を進んで行くと,青い標識のところで車止めが現れて,その先は遊歩道となる.昨年春に新しく開通した「市道山手東上西野線」で,線路沿いを松井山手方面につながっている.そしてその手前には,左への分岐がある.

これは従来からある道で,カルバートで線路を潜った後,花住坂方面の市道に抜けることができる.私が以前から知っていたのは,ここまでだった.

 

しかし,実はもう一本,線路を潜る道がある.2枚上の写真,手前の右への分岐は田畑につながる農道で,農夫以外は通らないような道である.しかしそこを進んで行くと,突如左への分岐が現れる.

このカルバートは,新しい遊歩道を潜っている.昼間に訪れたこともあり,背後に広がる農地では,農夫たちがせっせと汗を流している.視線を気にしながら,怪しまれないように素早くカルバートに入り,正面を望むと,

奥の怪しい暗がりが,お分かりいただけるだろうか.さらに接近し,フェンスの向こうを覗くと,

あった!!

 

フェンスには扉があり,ダメもとでノブを回してみると,人ひとり分くらいの隙間が開いた.背後では農夫が仕事をしているが,カルバートがうまい具合に身を隠してくれていたので,失礼させていただいた.もちろん,扉はきちんと閉めた.

 

改めて,正対する.

(仮) 大住上西野橋梁.明治31年 (1898年) の開業当初からのものである可能性が高いと思われる.

 

アーチは,

4層巻きで,そこだけ黒い焼過煉瓦を使うという装飾的な造りである.こんな場所にお宝物件が眠っているとは,いやはや驚いた.

 

内部に入る.

ああ,美しい.

 

左側に側溝があり,水は今でもそこを流れていたが,明らかに水量に対して規模が見合っていない.頻繁に溢れているようで,歩道部分の路面もぬかるんでいた.このあたりがフェンス封鎖の理由かもしれない.なお,その側溝や歩道端の一部にも煉瓦敷きが見られるという情報がある 2 が,見落としてしまった.

 

西側の出口には階段がある.そこを登って振り返ると,

こちらは残念ながらコンクリートで延長されている.複線化用地を確保するためだろうか.

 

さらに進むと,階段を登り切った先で,この写真の道と合流していた.

中央左手の下草にまみれたフェンスが出入り口である.南京錠で施錠されていた.そこから下を覗いてみると,

長い間使われていないため,荒れていて不気味である.煉瓦アーチは見る影もない.余程の物好きでなければ,ここに突入しようという気にはならないだろう.

 

位置関係からして,最初にこのカルバートで潜った遊歩道からも,煉瓦アーチは見えるはずだ.そう思って向かってみたが,

なるほど,今まで気付かなかったはずだ.

 

埋もれさせておくには,あまりにもったいない鉄道遺産だった.

(仮) 藤阪南町橋梁

最後は一気に移動して,京田辺市のお隣,大阪府枚方市へ.快速は停まらない藤阪駅のすぐ北側の築堤に,煉瓦アーチが口を開けている.ここは車通りも人通りも多い道路の脇で,手軽にその姿を拝むことができる.

 

まず西側.

(仮) 藤阪南町橋梁.こちらも竣工時期は不明だが,明治31年の開通当初の可能性が高いと思われる.

 

それにしても,不思議な外観である.

驚くほど縦に長く,横に短い.この規模ならアーチにせずとも,単に短い橋桁を渡すだけでもよかったのではないか.そのアーチは2層巻きで,小山川架道橋(仮) 大住西上野橋梁にはなかった要石がある.壁面はイギリス積みだが,小口の段は飛び飛びで焼過煉瓦を配しているようにみえる.見間違いでなければ,これはポリクロミーと呼ばれる装飾である.上部はコンクリートで補修されているが,当初は帯石や笠石もあったのかもしれない.総合すると,用途や規模に似合わないほど,凝った装飾が施されている.

 

よくみると,

側壁の下の方に,両側から煉瓦が飛び出した段がある.おそらく板を渡して,人が歩けるようにしていたのだろう.狭い幅員だが,人ひとりくらいなら歩ける.今は真南に藤阪駅を潜る大きな道路が通っているが,例えば現在 (左) と藤阪駅開業前の1961年 (右) の航空写真と見比べてみると,

以前そこに道はなかったようだ.中央の十字が本橋の位置だが,線路を越えて農地へ行き来するための近道として,使われていた時期があったものと思われる.

 

そう考えると,凝った装飾にも納得がゆく.毎日農夫たちが行き来するだけでなく,線路の西側の道路は1961年時点で既に大きく写っており,昔から重要な道であったことが窺える.同じ関西鉄道による伊賀街道架道橋大和街道架道橋のように,重要な道に面する鉄道構造物には,凝った意匠が施されることがあるから,ここもその一例だった可能性がある.

 

さて,煉瓦アーチだから内部に進入したい気はしたが,例によって長靴など持っていないし,そもそも人目につく場所でフェンスの向こうに進入するのは憚られた.そのため道路を通って反対側に回ってみると,

水路はコインパーキングの脇に出てきていた.見ての通りコンクリートで延長されている.おそらく複線化の際の施工だろう.

 

この日のレポートは以上である.まだまだ他にも訪れたい物件は残っている.その最たるものは,今回は素通りした京都府大阪府の境,線路付け替えによって廃止された奥大谷トンネルである.それに馬坂跨線水路橋の上にも行ってみたい.電車通学を始めて以来毎日のように乗っている学研都市線は,多数の土木遺産を秘めた,奥深い鉄道路線だった.

参考文献

  1. 京都府教育庁指導部文化財保護課・編 (2003) "京都府の近代化遺産:京都府近代化遺産(建造物等)総合調査報告書" pp. 52-54,京都府教育委員会
  2. x@rgs/Y.R.Takanashi/五位堂 (刊行年不明) "廃準レポ - Frost Moon Project" 2021年7月8日閲覧.