交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

学研都市線の鉄道遺産【前編】― 防賀川トンネル・馬坂跨線水路橋ほか ― (2021. 5. 29. / 2022. 1. 20.)

けいはんな学研都市へのアクセス路線として,また通勤通学路線として重要なJR学研都市線 (片町線).そこに多数残る,煉瓦造りの鉄道遺産を探索した.

 

(2022. 1. 23.) 馬坂跨線水路橋について,再訪につき追記しました.

目次

はじめに

JR学研都市線は,京都府の最南部,木津川市の木津駅と,大阪市の中心部に近い京橋駅を結んでいる.京橋駅からはJR東西線に乗り入れ,南森町 (大阪天満宮) や梅田 (北新地) に直通するだけでなく,放出で新大阪方面,京橋で大阪環状線とそれぞれ接続し,郊外のベッドタウンから大阪市方面への通勤路線として,日々多くの人々を運んでいる.また,沿線の大阪産業大学 (大阪桐蔭高校),同志社大学けいはんな学研都市などへのアクセス路線としても,重要な役割を担っている.

 

そんな現代風の性格の学研都市線だが,実は長い歴史をもっている.大阪側の京橋駅 (当時は片町駅) から四条畷駅までは明治28年 (1895年) ,野崎参りで知られる野崎観音や,楠木正行を祀る四條畷神社への参詣路線として開業した.そして京都側,木津駅から四条畷駅区間は,これまでもレポートしてきた関西本線を開いた関西鉄道株式会社が,明治31年 (1898年) 6月に開業させた 1

 

その関西鉄道によって開かれた区間のうち,今回は同志社前駅から藤阪駅の区間に残る,明治期の鉄道構造物群を探索した.

 

なお,今回の探索エリアの大部分は,私の居住する京田辺市である.そのため,実際に探索した順でレポートするのは,自宅の位置を公開することになってしまう.従って今回は,探索の順番とは無関係に,同志社前から藤阪の方向でレポートしてゆくことにする.写真によって光の当たり方などがまちまちなのは,そのせいである.

防賀川トンネル

最初にレポートするのは,同志社前駅の北側の防賀川トンネルである *1京田辺は平地だから,我々住民にとって山岳トンネルは身近な存在ではない.しかし一方で天井川は数多くあり,その下をくぐる道路はそこかしこに存在する.この地で生まれ育った私にはそれらが自然な風景だったが,天井川が全国的にメジャーではないことを知ったのは,だいぶ大きくなってからだった.

 

さて,本節でレポートする隧道も,その名の通り天井川を潜るものである.まずは,南側坑門から.

防賀川トンネル,明治31年 (1898年) 竣工 1

 

明治らしい総煉瓦造りの,いわゆる冠木門タイプの隧道である.

アーチは黒い焼過煉瓦の4層巻きとして,その最上部には要石を埋め込んでいる.これだけで全体がキュッと締まった印象になる.両脇のピラスター (側柱) では,通常の赤煉瓦と黒い焼過煉瓦を交互に配置して,彩り豊かに仕上げている.関西本線第165号橋梁の解説板から得た知識だが,こういった意匠をポリクロミーと呼ぶそうだ.本当に美しい.

 

内部を覗きたいところだが,線路内に立ち入らないと無理なので諦めた.日頃から立入禁止を破ることも多い私だが,さすがに現役鉄道線の,それも頻繁に列車が通過する区間は不可侵と決めている.ここまでの写真も全て,隧道南側の踏切から撮影している.

 

この至極当然のルールを守ると,反対の北側の坑門を間近で観察することは困難と判断した.そのため,車内から拝むことにした.

北側だから日焼けしていないのか,状態は南側より良いように見える.なお,隧道の奥で左にカーブしているところが,同志社前駅である.

(仮) 興戸町田橋梁

防賀川トンネルを抜けた学研都市線は,左手にホームセンターを見ながら,盛り土の上を進む.その盛り土区間で道路を跨ぐのが,本節でレポートする小さな小さな橋梁である.

 

まずは,西側から.

かなり白化しているが,煉瓦積みの橋台である.開業当初のものかはわからないが,コンクリートが普及する大正以前であることは間違いないだろう.上部工はコンクリートに見えるので,後年に取り替えられたものと思われる.

 

本橋の名称は現地では判明せず,また名称を明らかにする資料も見つけられなかった.通報用の「かたまち010」という掲示があるので,片町線第10号橋梁とでも呼べばいいのかもしれないが,やや味気ないし,正しい命名法かどうかもわからない.そのためここでは,地名を取って興戸町田橋梁という仮名をつけておくことにする。

 

近寄ってみると,

長手の段と小口の段を交互に重ねる,イギリス積みのようだ.

 

見ての通りの小さな橋で,車なら軽トラくらいが限界だろう.高さも人が通るのにギリギリで,付近には高さ制限1.9mの標識もあった.頭を打たないように気を付けながら,東側に抜けて振り返る.

こちらの方が状態は良さそうだ.煉瓦の赤色を留めている.

 

タイミングよく電車が来た.

小さな小さな煉瓦橋台だが,これまで100年近く,ひょっとするとそれ以上の年月,橋桁と列車を支えている.

馬坂跨線水路橋

次の物件は,おそらく学研都市線の鉄道遺産の中で最も有名なものだ.地元では「みつまんぽ」と呼ばれている.「まんぽ」は言うまでもなくトンネルのことで,「みつ」は三つ,つまり三連のアーチということである.

 

この水路橋は,京田辺駅近鉄新田辺駅のある繁華街と,市役所や警察署のある市街地の中間くらいの位置にある.やや郊外の趣はあるものの,賑やかな場所からもすぐアクセスできる場所に,明治期の立派な鉄道遺産が残っている.

 

まずは,南側から.

馬坂跨線水路橋,明治31年 (1898年)竣工,近代土木遺産Bランク 2.植生に覆われているが,線路の両脇もアーチで,3連の煉瓦アーチとなっている.

 

別の角度から.

アーチの構造は煉瓦4層巻き+要石で,防賀川トンネルと同様である.ただしその下には石張りの迫受けと石積みの側壁を備えており,より豪華な印象を受ける.

 

電車がやってきた.

煉瓦アーチに現代的な通勤電車というミスマッチがたまらない.

 

こちらも,北側は車内から観察した.

美しい3連アーチである.跨線水路橋の中で多連になっているのは,ここ以外には長野県の蔵造川水路橋しかないそうだ 2

 

今回は見送ったが,地元住民ゆえ,橋の上に至る方法にも心当たりがある.上の写真からわかるように,真上の藪は薄く,自然の川よりは歩きやすいものと思われる.もちろんここに至るまでに自然の川を歩く必要はあるのだが,やはり上部がどうなっているのかは気になるので,折を見て探索するつもりだ.

再訪 (2022. 1. 20.)

カメラを新調したので,そのテストとして再訪した.

よく見ると帯石ラインより上は焼過煉瓦,下は赤煉瓦となっている.この装飾は関西本線大和街道架道橋にも用いられている.関西鉄道独自の優れた意匠と言えるだろう.

 

内部.

イギリス積み側壁の,小口の段には焼過煉瓦,長手の段には赤煉瓦が用いられている.ほとんど人の目に触れないところにも凝った装飾を施すのは,関西鉄道の特徴だ.

 

時間の都合上,今回も橋の上に行くことは叶わなかった.

幕間 馬坂橋 (2021. 6. 13.)

学研都市線の話からは離れるが,ここでひとつ面白いものをレポートする.

 

馬坂跨線水路橋の付近では,線路の東側に市道が並行している.当然,そちらも天井川と交差する.

上空で道路を横切るのが天井川の水路橋で,左に進むと馬坂跨線水路橋,右に進むと近鉄京都線を跨ぐ水路橋となる.

 

奇妙なのは,その下である.水路橋の下という,道路からすれば特に何もないはずの箇所に,

なんと,欄干がある.つまりこれは,「川に跨がれる橋」である.

 

欄干だけではない.橋に付き物の親柱が,4本全て設えてある.

名前は「馬坂橋」というそうだ.何も跨いでいないが,ここは「橋」だと主張している.しかも竣工年月の後には「架設」である.

 

こういったトマソン的な意匠の典型的なパターンは,川の暗渠化や付け替えによって橋の役割が失われた際,その遺構をモニュメント的に残すというものだ.特に戦後,急速に川の暗渠化が進行した東京ではそういった事例が多いそうだ.

 

しかしここは,先の親柱に平成4年5月と刻まれていたように,平成になってから造られた道路である.念のため地理院の航空写真でも調べてみた.

左が最新の航空写真,右が1985年の航空写真である.中央の十字のところが馬坂橋だが,右側の1985年時点では,そこに道路は認められない.ただ,よく見ると小さな橋が架かっているようにも見える.これが本当に橋であれば,そのことが関係している可能性はある.

 

いずれにしてもこの「馬坂橋」は旧橋の遺構などではなく,新しい道路を造る際にわざわざ設えた意匠である.歩行者が水路橋にぶつかることを危惧したのか,あるいは遊び心なのかはわからないが,ここは京田辺市の隠れた不思議スポットである.

天神川トンネル

話を学研都市線に戻そう.馬坂水路跨線橋の先は京田辺駅で,その先で再び短い隧道となる.ここも天井川を潜る隧道で,その川は天津神川という.

 

まずは,東側 (京田辺駅側) から.

残念ながら,こちらはコンクリートで改修されている.その工事も昭和10年 (1915年) とのこと 1 で,古いものには違いないのだが,あまり面白みのない坑門である.一応ピラスターはあるが,これは意匠というより,坑門が倒れないようにするための実用的なものであろう.

 

坑門はともかく,その奥に見える煉瓦アーチは見事である.

ここから見るだけでも美しい.

 

続いて,西側 (大住駅側).例によって車内から.

天神川トンネル,明治31年 (1898年)竣工,近代土木遺産Bランク 2

 

アーチは防賀川トンネルと同様,焼過煉瓦4層巻きに要石という構成である.ここを開業させた関西鉄道に特有の意匠かもしれない.そして興味深いのは,アーチの上の帯石部分で,2段式の歯形装飾,いわゆるデンティルである.非常に凝った装飾だが,敢えて黒い焼過煉瓦を用いることで,落ち着いた印象を保っている.

 

この趣味を始めてから,津々浦々の物件を巡ってきた.しかし今回レポートしたのは,いずれも生まれ育った京田辺市内の構造物である.まさに灯台下暗しだが,視点が変わったことで,ようやく足元の魅力に気付くことができた.

 

以降,後編に続く.

参考文献

  1. 京都府教育庁指導部文化財保護課・編 (2003) "京都府の近代化遺産:京都府近代化遺産(建造物等)総合調査報告書" pp. 52-54,京都府教育委員会
  2. 土木学会土木史研究委員会・編 (2005) "日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選―" pp. 180-181,土木学会.

*1:建造時期を考えると隧道と呼びたくなるものだが,ここでは「日本の近代土木遺産2 に倣って,全てトンネルと表記している.なお当該資料では,原則として道路用は隧道,鉄道用はトンネルと表記しているようだ.