第1次探索に引き続き,橋梁を中心に,関西本線で現役で活躍する鉄道構造物を巡った.
目次
探索開始まで
第1次探索では車移動だったが,今回は公共交通を利用しての探索である.今回の探索は,鈴鹿隧道や周辺の旧道を巡った日の午後に実施した.
鈴鹿山脈を下ってきた私は,「伊勢坂下」バス停からコミュニティバスに乗り,あっという間に関駅に着いた.鈴鹿隧道の記事を読まれた方はご存知の通り,私は探索中の愚かな失敗により,両腕を負傷していた.痛みを堪えながら水で傷口を洗い,駅近くのコンビニで入手したワンタッチパッドで傷を塞ぐと,ようやく人心地がついた.その後道の駅で昼食を済ませ,加茂行きの列車に乗り込んだ頃には15時20分を回っていた.
隣の加太駅で列車を降り,3分の接続でコミュニティバスに乗り換える.「加太保育園」バス停で下車すると,見覚えのある景色だった.それもそのはず,ここは第1次探索で訪れた第165号橋梁のすぐ近くだった.
これから,国道を歩いて加太駅に戻る.国道は基本的に線路に沿っているから,道中で鉄道遺産を鑑賞しようというわけだ.そうして駅に戻るまでが前半戦で,その後はまた別の駅から探索を実施したのだが,そちらは後編の記事でレポートする.
板屋川橋梁
バス停から国道を50mほど東に戻ったところの道路脇には,
看板があることからわかるように,ここもよく整備されている.看板の裏手の道はコンクリートで固められており,その先では川原に下りるための階段まで設えてあった.そこを下りると,
ずいぶん高い位置に架けられた橋桁が見えた.
川辺を歩いていき,その全貌を捉える.
関西本線・板屋川橋梁,明治23年 (1890年) 開業.切石積みの上に帯石,その上は煉瓦積み+隅石という重厚な橋脚で,鋼の橋桁を支えている.
橋脚を見上げて.
迫力に圧倒される.石積みの下部が五角形になっているのは水切りだろうか?奥には隣の橋脚の煉瓦積みも見えている.
美しい石積みを,間近で見る.
煉瓦で言うところのフランス積み,でいいのだろうか.壁紙に使えそうな一枚だ.
探索中,タイミングよく列車がやってきた.
明治期の重厚な構造物が,今なお現役で活躍している素晴らしい景色を拝むことができた.
川べりを歩けばまだ先に進めるが,今回はここで引き返すことにした.最後に,奥側から振り返って.
屋渕川橋梁
国道に戻り,400mほど東に進む.次の目的地も鋼ガーダー橋だが,
こちらは国道と橋桁が同じくらいの高さで,手を伸ばせば線路に届くくらいの場所にある.
看板で解説されている銘板についても,間近で見ることができた.
上から順に「大正十三年」「大阪鐵工所製作」「LIVE LOAD : COOPER'S E-40」「鐡道省」と読める.この区間の開業は明治23年だから,橋桁は後年に架け替えられているということになる.ここで COOPER'S E-40 というのは,アメリカの著名な技術者 Theodore Cooper が定めた橋梁の活荷重 (live load) の基準のひとつで,大正10年には鉄道省令としての設計荷重に採用されている 1.ここは当時すでに国有化されていたから,その省令を受けての架け替えとみて間違いないだろう.
さて,間近で桁を見られたのはいいけれど,やはり下部工も見てみたい.そう思って,橋の下を潜ってゆく踏み分けを進んだ.
写真だと伝わりにくいが斜面は緩く,下草を気にしなければ,歩くことに支障はなかった.
橋桁の真下に至り,左を向くと,
煉瓦積みの美しい橋台である.桁に接する部分はコンクリートに見えるが,後年の補修だろう.貼り紙の内容は劣化が激しくて読み取れなかったが,後ほど市場川橋梁で同じものを目にすることになる.
反対側を向けば,
関西本線・屋渕川橋梁,明治23年 (1890年) 開業.先に訪問した板屋川橋梁よりも視点が高いので,美しい煉瓦積みを間近で眺めることができた.
ここではまた,別の面白い発見をした.国道から橋の下に至る道について,私は愛好家の踏み跡程度のものと思っていたのだが,橋を過ぎると,
なんと法面に石垣があった.ということは,ここは整備された道路に違いない.道の素性は私にはわからないが,相当古いものと思われる.鉄道が通るより前のものかもしれない.
道は高度を下げながら先に続いており,このまま進めば川原まで降りられそうだったが,ここで引き返した.最後に,違う角度から見た屋渕川橋梁の姿を.
幕間 猪之元橋
屋渕川橋梁を後にして,線路に沿って東へ進む.その途中,列車がやってきた.
のどかな良い景色である.
ところで,写真からわかるように,ここは道路橋である.交通遺産をめぐる趣味を始めてからというもの,私は橋を見ると,横または下から眺めて,その構造や意匠を把握せずにはいられなくなっている.そうすると,大体は空振りに終わるのだが,時々美しい橋を見つけることがある.そんなわけで,この橋でもガードレールから身を乗り出してみると…
!!!
驚いた.やはり橋は渡るだけでなく,横や下から見なければいけない.
例によって長靴など持っていないので,谷底に下りるのは難しそうだ.しかし少し加太駅側に進むと,水門の管理用らしき石積みの通路があった.封鎖されていないし入るなとも書いていないので,少しだけ失礼した.そこに立って,橋の方を向くと,
平凡な上部工からは想像がつかない,美しい橋脚である.煉瓦積みに隅石という,ここまでで見てきた鉄道橋の橋脚と同様の構造になっている.鉄道絡みの橋であることは間違いない.
本橋の名前は「猪之元橋」.関西本線 (当時は関西鉄道) 敷設にあたって国道 (大和街道) が付け替えられたらしく,その際に架けられた道路橋とのことである 2.煉瓦積み+隅石というだけでも美しいが,さらに焼過煉瓦と通常の赤煉瓦を交互に配したポリクロミーの装飾が施されている 2.私の写真ではわからないが,引用先に明瞭な写真があるので,ぜひご覧いただければと思う.それにしても,第1次探索で訪れた大和街道架道橋と同様,当時の関係者が如何にこの国道を重要視していたかが窺える.
市場川橋梁
前半戦最後にレポートするのは,加太駅すぐ近くの煉瓦アーチである.かつての栄光を偲ばせる長いプラットホームの北側は踏切になっており,そこから脇道に入る.
ここを進んでいくと,
その奥には,
関西本線・市場川橋梁,明治22年 (1889年) 竣工,近代土木遺産Bランク 3.
本橋の一番の装飾は,
アーチの根本である起拱部 (迫受け) が雁木状になっている.帯石や笠石の雁木は比較的よく見かけるが,これは珍しい.
本橋はその名の通り川を跨ぐ橋 (暗渠) だが,後年に歩道が設えてあり,容易に内部を見学できる.
美しい.
解説板にもあるように,中央部には継ぎ目が存在する.
開通当初未開業の加太駅の設置によるものと推定されている.しかしそれも明治期であるから,コンクリートではなく煉瓦で拡張されたようだ.起拱部の雁木も受け継がれている.
抜けて振り返ってみると,
こちら側は植生の猛攻に埋もれていた.
なお,本橋にはこんなものが貼り付けてあった.
これは,屋渕川橋梁で見たのと同じものだろう.「日本国有鉄道」となっているのがいかにも古いが,昭和61年というと国鉄民営化の前の年だから,国鉄最後期の掲示である.ある程度は希少かもしれない.
この後は加太駅に戻り,列車に乗って移動した.後編に続く.
参考文献
- 小西純一,西野保行,中川浩一 (2002) "大正・昭和前期における鋼鉄道橋の発達とその現況" 土木史研究,第22号,pp. 257-268,2021年7月4日閲覧.
- びわ湖鉄道歴史研究会 (2017) "関西鉄道 加太鉄道遺産群 見学会" 2021年7月4日閲覧.
- 土木学会土木史研究委員会・編 (2005) "日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選―" pp. 142-143,土木学会.