交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

琵琶湖線の東山トンネル 山科側坑門 (2021. 5. 22.)

JR琵琶湖線 (東海道本線) は,京都と大津の間で2本の長い隧道を潜る.そのうち,大津寄りの新逢坂山トンネルには以前訪れたが,今回はもう一方の東山トンネルを訪れた.

 

澱川橋梁を訪れたのと同じ日,京都市内での用事を済ませた後に訪問した.京阪バスを「北花山」バス停で降り,そこから少しだけ北に歩いたところが跨線橋で,フェンス越しに隧道の東側 (山科側) 坑門を見下ろすことができる.

東山トンネル.大正10年 (1921年) 竣工,近代土木遺産Aランク 1土木学会選奨土木遺産 2

 

坑門は煉瓦と石を組み合わせた重厚な造りで,同時期にできた新逢坂山トンネルとよく似ている.ただこちらは,2線の間に縦のスリットが見える.文献 3218ページに掲載されている竣工時の写真にも写っており,当初からの装飾であることがわかる.向かって右側の方が煉瓦の黒ずみや白化が激しいように見えるが,これはやはり蒸気機関車の排煙によるものと思われる.鉄道は左側通行だから,当初は向かって右側の坑口からSLが出てきていたはずだ.SLの排煙は後ろ向きに進むから,右側の坑口付近はそれを直に受けることになり,左側,つまりSLが進入していた側よりも傷んでいるのだろう.

 

扁額には,

向かって左側,上り内側線 (当初は下り線) には「古今相照」,右側,上り外側線 (当初は上り線) には「山紫水明」である 3 .前者の「今」はもちろん本隧道のことだが,「古」は本隧道 (および新逢坂山トンネル) の開鑿によって旧線化した (初代) 逢坂山トンネルのことを指しているのかもしれない.個人的な解釈だが,古きと新しきがお互いを照らす,つまり相互に良い影響を与えているといった意味ではないかと思う.古き隧道の技術が新しき隧道の技術の礎になったことは言うまでもないが,新しき隧道の開鑿によって古き隧道の功績も陽の目を見る,という意味もあるのではないか,とも思うが,やや考えすぎかもしれない.一方の「山紫水明」の意味は明瞭で,東山の自然を讃えているにちがいない.

 

そして両方の扁額とも,長谷川謹介氏によるものだそうだ 3 *1.彼は国内で数多くの鉄道工事に携わった *2 だけでなく,台湾鉄道の敷設も指揮した凄腕の技師である 4 .興味深いことに,彼が死去したのは,本隧道の竣工からわずか5か月後の大正10年10月である 4.揮毫の時期はわからないが,ひょっとすると彼の最後の揮毫かもしれない.もうひとつ面白いのは,新逢坂山トンネルの西側坑門の扁額を揮毫した古川阪次郎氏が,長谷川氏の同僚にして親友で,長谷川氏の逝去に際しては葬儀委員長を務めるほどの人物であったことだ 4.東山トンネルの東側と新逢坂山トンネルの西側は,山科駅を挟んで正対しており,偶然だとは思うがまるで両氏の仲の良さが現れているようである.

 

さて,鉄道隧道だからぜひとも本来の姿で,つまり列車とともに記録したい.しかし,今いる道路は,以下のストリートビューのように隧道側に歩道がなく,また交通量も少なくないので,一瞬写真を撮るだけならいいが,そこでカメラを構えて列車を待つのは憚られた.

仕方がないので,隧道と反対側に架けられている歩道橋に行ってみることにした.上のストリートビューで視点を手前側に向けてもらうと,跨線橋があるのがわかると思う.

 

しかし,予想はしていたが,先ほどまで居た道路と架線柱が邪魔で,隧道の姿が見えにくい.

この写真も,完全にしゃがみこんで,可能な限り低いアングルから撮影している.傍から見たら明らかに不審である.

 

そんな怪しげな姿で撮影したのが以下の2枚である.

邪魔なものは写っているが,その背後にあっても大正生まれの煉瓦隧道の存在感は大きい.

 

これにて撤収したが,まだ日が明るかったので,もう一箇所寄り道をすることにした.その模様は次回レポートする.

参考文献

  1. 土木学会土木史研究委員会・編 (2005) "日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選―" pp. 180-181,土木学会.
  2. 土木学会選奨土木遺産選考委員会 (2005) "東山トンネル・新逢坂山トンネル | 土木学会 選奨土木遺産" 2021年6月25日閲覧.
  3. 小野田滋,山田稔井上和彦,松岡義幸 (1990) "わが国における鉄道トンネルの沿革と現状 (第3報)―旧・官設鉄道長浜-神戸間をめぐって―" 土木史研究,第10号,pp. 211-222,土木学会,2021年6月25日閲覧.
  4. 長谷川博士伝編纂会・編 (1937) "工学博士長谷川謹介伝" 明治期鉄道史資料,第2集第7巻,日本経済評論社

*1:当該資料では「神戸鉄道局長」となっているが,神戸鉄道局ができたのは長谷川氏が退官した後の大正8年だから,正しくは「中部鉄道管理局長」である.実際,氏は東山トンネルが起工された大正5年,東海道本線を管轄する中部鉄道管理局の局長を務めている 4

*2:その中には (初代) 逢坂山トンネルも含まれている.