交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

黒田隧道 (2021. 5. 3.)

連休中のこの日は,車で京都府北部の探索に出かけた.最初に訪れたのは,京都市の最北端・京北の地に眠る廃隧道である.

目次

導入

今回レポートするのは,以前水没区間を記事にした,国道477号の隧道である.といっても,水没区間から直線距離で約60km,国道を忠実に辿れば90km以上も離れた場所である.右京区京北の中でも黒田と呼ばれるこの地区において,国道477号は下のストリートビューのようにトンネルで山を潜る.

片側1車線に歩道も確保された現代的なトンネルである.ポータルものっぺりしたもので,これといった特徴はない.扁額はないが,地図を見ると,名前は「黒田トンネル」とのことである.

 

しかし,今回の目当てはこのトンネルではない.上の画像からは全く窺えないが,隣に旧隧道――記事タイトルの「黒田隧道」――が眠っているのである.

西側坑門

上のストリートビューから少し手前に戻って南側 (現トンネルを向いて左側) を向くと,旧道敷を転用したと思しき駐車場と,鳥居をくぐって山を登る道が見える.どうやら黒田八十八稲荷神社という御社があるらしい.旧道敷や旧隧道も,今はそこの敷地なのだろう.そこに入って現道と平行に進むと,旧隧道がすぐにその姿を現す.

黒田隧道.隧道データベース 1 によると昭和14年 (1939年) 竣工.洞内からの出水の影響か,路面はかなり泥濘んでいた.しっかり接近するには長靴があった方が良さそうだった.

 

さて,この隧道はコンクリート造りだが,それにしては幅員はかなり狭い.同じく隧道データベース 1 によると,3mとのことである (実測していないが私の体感とも一致する).5年前に竣工している2代目老ノ坂隧道の幅員が5.5m 2 だから,それよりも狭い.古くからの幹線国道である国道9号 (老ノ坂隧道) と,平成になってからようやく国道指定された国道477号を比べるのは適当でないかもしれないが,いずれにしても,この狭さは廃止に至った一因だろう.

 

さて,脇に堆積している土砂を伝って隧道に接近する.

扁額には右書きで「黒田隧道」.

 

坑門全体を上から.

意匠としては2代目老ノ坂隧道と似ている.ただし,荒れ具合は比べるまでもない.独特な特徴として,坑門上部に排水溝があり,向かって左側のパイプを伝って水が流れるようになっている.ちょっとしたアクセントという感じで好ましい.

東側坑門

東側坑門はほとんど埋まっているが,現道のすぐ真横にある.

歩道の向こうに祠があるが,その背後の斜面 (実際は階段状になっている) は坑門を埋めている土砂である.その上部をよく見ると,コンクリートの壁のようなものが見える.これこそが,黒田隧道の東側坑門である.

 

近付いてみると,こんな状態であった.

わずかに開口している.木の支えはこれ以上埋まってしまわないようにということだろうか?どうにも頼りなく見えるが…

 

扁額.

こちらも右書きで「八光洞」.八光という言葉に聞き覚えはないが,「八」と言えば末広がりで縁起の良い数字である.素晴らしい光をもたらす隧道,みたいな意味だろうか.現代の明るいトンネルならまだしも,古い時代の隧道は照明もなく,不気味な印象を持たれがちである.そういったネガティブイメージを打破したいという思いから「八光」という明るい言葉が採用されたのかもしれない.

補遺: 竣工年について

先ほど私は,この黒田隧道について,隧道データベース 1 を根拠として「昭和14年竣工」と述べた.坑門の意匠からしても,そのあたりの年代のものとして不自然ではない.

 

しかしながら,実は「黒田隧道は明治隧道である」という情報がある.具体的には,隧道に至近の「おーらい黒田屋」というお店 3 のサイトに,

名称は、明治42年に開通した京都府下初のトンネル「黒田隧道」の石板に刻まれた「安往来」に由来しています。

とある *1.また「穴と橋とあれやらこれやら」さまの記事 4 によると,現地 (ストリートビューで見る限り上述店舗の敷地内と思われる) にもやはり「明治42年に黒田隧道が完成した」という内容の看板があったそうだ.しかし,先ほどの黒田隧道の坑門は,どう見ても明治隧道の意匠ではない.

 

1つの可能性としては,明治竣工の (初代) 黒田隧道が別にあり,昭和14年に2代目隧道ができたということが考えられる.しかし私はそうではなく,明治に開鑿された黒田隧道を改修した結果,現在の姿の黒田隧道になったのだと思う.先ほど狭い狭いと評した3mという幅員は,明治時代の隧道としては自然に思えるからだ.例えば,初代老ノ坂隧道 (明治16年竣工) の幅員は4.34m 5京都府北部・宮津市にある栗田隧道 (明治19年竣工) の幅員は3.1m 1,竣工年の近い奥山田第三隧道 (明治45年竣工) の幅員は3.8m 1である.改修の際に幅員の拡幅まではしなかったのだろう.また隧道データベースの「昭和14年竣工」というのは,改修された年だとすると合点がいく.

 

昭和に改修されたとして,次に気になるのは,「おーらい黒田屋」の由来になった「安往来」の扁額である.これほど意味が明瞭で,また隧道への期待がはっきり伝わる扁額もなかなかないと思うのだが,改修に合わせて撤去されたのだろう.そう考えてみると,両側の扁額は別人が揮毫したように見えるし,扁額自体の大きさも異なるし,「八光洞」の方が傷みが少なく見える.「黒田隧道」の方は明治隧道の扁額をそのまま使い,「八光洞」の方は新しいものに交換したということだろうか.だとするとその理由は何だろう.ひょっとすると,旧隧道時代に,改修のきっかけとなる事故か何かがあって,事故によるネガティブな印象を払拭するために「八光洞」にしたのではないか,などと穿ったストーリーが浮かんでしまう.もちろん根拠のない妄想である.いずれにしても,「安往来」の扁額がどこかに保存されているのであれば,それを見てみたいし,どなたの揮毫なのかも気になるところである.

参考文献

  1. 日本の廃道・編 (刊行年不明) "隧道データベース" 2021年5月17日閲覧.
  2. 内務省土木試験所・編 (1941) "本邦道路隧道輯覧" p. 40, 内務省土木試験所,2021年5月17日閲覧.
  3. おーらい黒田屋 (刊行年不明) "会社概要 | おーらい黒田屋" 2021年5月17日閲覧.
  4. クイック (2015) "黒田隧道 (廃) (京都市右京区京北宮町~京北下黒田町) | 穴と橋とあれやらこれやら" 2021年5月17日閲覧.
  5. 内務省大阪土木出張所 (1935) "京都國道(十八號線)隧道の開通" 道路の改良,第17巻第5号,pp. 132-137,道路改良会 ,2021年5月18日閲覧.

*1:ちなみに「京都府下初」は誤りと思われる.例えば初代老ノ坂隧道は明治16年に竣工している 5