交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

老ノ坂隧道 (2021. 4. 30.)

交通構造物を巡る趣味を始めてから,初の大型連休ということで,色々な場所を探索した *1.この日最初に訪ねたのは,亀岡市の「老ノ坂峠」を越える隧道 (群) である.

目次

導入

京都市西区と亀岡市の境には,大江山 (大枝山) という山が聳えている.古くは山城国丹波国の境であり,小式部内侍の

大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立

の歌が有名である.老ノ坂峠はその山腹にある峠で,街道 (山陰道・現在の国道9号) 上の難所であった 1 が,明治16年,峠越えの新道として造られたのが初代・老ノ坂隧道である 2

 

初代隧道はその後約50年に渡って利用されたが,交通量の増大に伴い,昭和9年に2代目の隧道が建設された 2.この2代目隧道が今回のメインであるが,昭和39年に3代目となる新しい隧道が造られたため,現在は一線を退いている 2.興味深いことに,3代目隧道は,実は初代隧道を大幅に拡幅することで造られている 2.つまり現道は (ある意味) 明治隧道で,旧道が昭和隧道という,不思議な状態になっているのである.なお,2代目隧道は自動車隧道としては廃止されたが,自転車・歩行者専用の隧道として,現在も活躍中である.

 

さて,ここからが本編である.探索の順番とはやや異なるのだが,2代目の旧隧道,3代目の現役隧道,初代の隧道の順にレポートする.

2代目・老ノ坂隧道

京都駅から京阪京都交通のバスに揺られること45分,「老ノ坂峠」バス停に到着した.道路を渡って歩道を150mほど進むと,2代目・老の坂隧道の山城側 (東側) 坑門が口を開けていた.

旧・老ノ坂隧道.昭和9年 (1934年) 竣工,近代土木遺産Cランク 3 .コンクリート造りとはいえ,笠石,扁額,ピラスターに迫石 (状の模様) を備えているのがレトロで好ましい.「日本の近代土木遺産3 は,

純化された古典風デザイン

としている.

 

扁額には「和風洞」.隧道としては日本古来のもの (観音掘りなど) ではなく洋風隧道であるが,和風とはどういうことか.この点に言及している資料は発見できなかったのだが,一つの解釈として,上述のような「古典的な意匠」に由来する佳名ではないかと思う.昭和初期といえば,煉瓦や切石に代わってコンクリートが隧道建設に用いられるようになってきた黎明期で,コンクリートならではの,装飾に富んだ自由な意匠の隧道が続々と誕生していた時期である *2.そんな中で,敢えて装飾は控えめにして,しかし笠石・ピラスター・迫石といった要素は残した「古典的な」隧道,というのが「和風洞」の意味するところではないか.もちろんそれらも欧米由来の要素だが,すでに日本で洋風隧道が造られるようになってから50年以上が経過し *3,そういった意匠が日本の隧道としても伝統的,すなわち和風とみなされつつあったのかもしれない.ラーメンが和食として扱われることがあるように.

 

さて,入洞.

人が歩くには十分すぎるほどの断面積である.しかし車道用としては,現代の自動車の大きさを考えると明らかに狭い.実際,車道時代には交互通行となっており,渋滞は日常茶飯事,行楽シーズンには交通麻痺に陥っていたと記録されている 2

 

非常電話設備もある.

歩道隧道としては珍しいと思うが,車道時代からのものだろうか?

 

上の写真にも少し写っているが,洞内はコンクリートの亀裂部分など,チョークによる書き込みが随所に見受けられた.

心無い落書きと違って,この隧道を懸命に維持する努力が垣間見えるのでまことに好ましい.1枚目など,見落としてしまいそうな剥がれまでもしっかりマーキングされており,道路管理者の細かな仕事に感服した.

 

まっすぐ歩き,脱出.

旧・老ノ坂隧道,丹波側 (西側) 坑門. 扁額には「老の坂隧道」.往時の姿をよく留めているが,山城側坑門よりも傷みが激しいようだ.また山城側との違いとして,迫石部分より内側に追加の巻き立てがなされているように見えるのだが,洞内を歩いていてもそれらしい断面の変化には気が付かなかった.

3代目・老ノ坂隧道

2代目隧道のすぐ南に口を開けているのが,明治隧道を大幅に改修して造られた3代目隧道である.

現・老ノ坂隧道.昭和41年 (1966年) 竣工 2.大型車同士の離合も可能な大きさである.明治隧道の面影は窺えないが,2代目隧道よりも延長が短いあたりは,明治隧道の名残であろう *4 .写真は丹波側坑門である.山城側の坑門は,安全に接近することができない (交通量の多い車道を歩く必要がある) と判断したため,写真はない.シンプルな意匠のコンクリートトンネルだが,アーチに沿ったスリットがあるのは,2代目隧道を踏襲したのかもしれない.

初代・老ノ坂隧道 (扁額のみ残存)

3代目隧道の建設によって失われた初代隧道だが,扁額だけが現道の脇に保存されている.旧長野隧道でも見たパターンである.

1枚目は山城側の「松風洞」,いかにもおめでたい名前である.2枚目は丹波側で,私には解読できなかったが,「サイクリング日記」さまの記事 4 の京都国道事務所からの回答によると,

遠邇之利往来之便

すなわち,

(この道ができたことにより)遠いところにも近いところにも利益をもたらし、往来の便がよくなった。

とのことであり,隧道開鑿に込めた期待が窺える.隧道の扁額に掲げるには些か長い文であるが,本稿の最初で引用した「大江山の歌」には,生野という (比較的) 近い土地の名前と,天橋立という遠い沿岸部の地名が対照的に登場しており,それを踏まえて「遠邇」(遠いところと近いところ) は外せなかったのではないかと,素人考えで思う次第である.揮毫したのは,琵琶湖疏水の建設などの功績で,田邉朔郎とともに京都の近代史にその名を轟かせる第3代京都府知事・北垣国道とのことである 1, 4

 

なお,初代隧道の現役時代の写真が「京都府誌」1 や「亀岡市史」2 に掲載されている.明治隧道らしく切石造りの,盾状迫石を備えた坑門だったようだ.「京都府誌」の方は国立国会図書館によるデジタルアーカイブがWeb上で閲覧できる (参考文献のリンクを参照) ので,ぜひご覧いただければと思う.往時の姿を直接この目で見ることは叶わないが,写真が残っていること,さらにそれが公開されていることは有り難い限りである.

補遺: 隧道名の表記について

隧道名および峠の名前については,老ノ坂 (現隧道の扁額),老の坂 (2代目隧道の扁額),老阪 (「京都府誌」1) などの揺らぎがあるが,本稿では現隧道の扁額,「亀岡市史」2 および「日本の近代土木遺産3 の表記に従って「老ノ坂」に統一してある.

参考文献

  1. 京都府・編 (1915) "京都府誌" 下,p. 210,京都府 (リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション,当該ページはコマ番号153,2021年5月10日閲覧).
  2. 亀岡市史編さん委員会・編 (2004) "新修亀岡市史" 本文編第3巻,pp. 112-113・471 ・829-830,京都府亀岡市
  3. 土木学会土木史委員会・編 (2005) "日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選" pp. 178-179,土木学会.
  4. yoshim (2005) "サイクリング日記'05_0821"  2021年5月10日閲覧.

*1:念のために書いておくが,一人で,感染症対策を徹底して活動している.

*2:大渡隧道などはその最たる例である.

*3:先代の老ノ坂隧道の竣工から数えても50年が経過している.

*4:京都府誌」1 には,初代隧道の延長が100間,つまり約182mと記録されている.拡幅されても延長はそれほど変わっていないようだ.