交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

名取トンネル旧道 (2021. 4. 21.)

この記事が愛媛旅行編の最後となる.国道197号,名取トンネルの旧道を訪ねた.旧道と言っても峠越えの道ではない.今回レポートするのは,特異な経緯によって廃道化した,まだまだ新しい道路である.

目次

導入 1

今回の舞台は四国の「左上」,愛媛県から飛び出した佐田岬半島である.その付け根にあたる八幡浜市から,大分行きフェリーの発着する三崎までを,国道197号,通称佐田岬メロディーラインが貫いている.この国道の,三崎から約4kmの地点に位置する「名取トンネル」が,今回の主役である.

 

佐田岬半島は,急峻な地形と地質的な脆弱さから,土砂災害の発生しやすい地域である.名取トンネルが位置する南側斜面は特に顕著で,掘削工事中に1回 (1976年),完成後も台風や豪雨によって3回 (1983年,1988年,1990年) の地すべり災害が発生している.愛媛県土木部はその度に,時には3年以上の時間をかけてトンネルを補強・復旧し,道路を維持してきた.

 

3度目の災害復旧工事が終わった1994年以降,地すべりはしばらく沈静化していた.しかし7年後の2001年,トンネル周辺に再び地すべりの兆候が表れた.そしてその4年後には,トンネル本体のコンクリートに亀裂が発見される事態となった.2005年5月,名取トンネルは再び通行止めとされた.

 

愛媛県土木部は,もはや「災害による変状とそれに伴う対策工事」といういたちごっこは避けられないと判断し,様々な方法を検討した結果,路線変更によって地すべりを回避するという策に出た.路線変更とは,つまり新しいトンネルを掘るということであるが,半島を貫く唯一の幹線国道ゆえ,早期の復旧が求められた.そこで,地質に問題のない三崎側区間はそのまま利用し八幡浜側から掘削した新しいトンネルと繋ぎ合わせるという手法が採用された.もちろん,新トンネルの掘削による新たな地すべりにも,地盤の緩みを防ぐ工事等の十分な対策が施された.こうして,名取トンネル通行止めから2年3か月,2007年7月末に新・名取トンネルが開通した.

 

今回私が訪問したのは,新トンネルの開通によって廃止された,旧トンネルに至る道路である.上述の経緯から,この旧道は八幡浜側にのみ存在している.

廃道へのアプローチ

今回私は,路線バスでこの廃道にアクセスしたが,おそらくこんなことをする物好きは私くらいであろう.なにしろ,バスの本数が非常に少ない.私の乗った伊予鉄バスの「八幡浜三崎特急線」は,普段でも一日三往復しかないのに,この日はコロナの影響で,一日一往復まで減便されていた.しかし,行きのバスを降りてから帰りのバスが来るまで1時間と,探索には絶妙なダイヤであった.もし帰りの便に乗り遅れたら,鉄道駅のある八幡浜から30km以上離れた地に放置される *1 危険はあったけれど,その時はその時である.こういった無茶ができるのは一人旅ならではである.それにバスならば,駐車スペースを求めてうろうろする必要もないし,車から離れている間に不審車両として怪しまれる危険もない.そんなわけで,八幡浜から1時間バスに揺られ,この地にやってきたのだった.

 

「新名取口」でバスを降りると,そこは現道と,トンネル以前の山越えの旧道が分岐するところであった.そこで,まずは山越え道に少し入り,高いところから今回の目的地を眺めた.

写真右端に口を開けているのが (新) 名取トンネルで,その手前でガードレールの向こうをまっすぐ進むのが,目当ての廃道である.道路の先は宇和海の絶景である.ここに限らず,国道197号は佐田岬半島の稜線近くを通るので,海がよく見える.しかも細長い半島なので,左右両側に見えるのである.そういう景色をゆっくり眺められたのも,バスで来てこそであった.

廃道探索

いつまででも眺めていられそうな絶景であったが,あまり時間はないので,足早に廃道区間へ向かう.

 

のがなあつし氏 2 によると,上下線の標示が同じ位置にあるのは,愛媛県の特徴とのこと.確かにここ以外では見たことがない気がする.

 

速度標示の先が,局所的に酷く荒れていた.

ここだけ舗装の亀裂が多かったのかもしれない.それと,なぜか丸太が20本ほど放置されていた.

 

黄色のバリケードを越えると,橋梁区間となる.

車道部分はセンターラインも含めて非常に良い状態を保っている.植物の生い茂る地面から離れているからであろう.

 

橋に残された銘板.

名前は捻りなく「名取橋」.昭和53年竣工ということは,この先のトンネルさえ無事なら,もうしばらくは現役でも通用するはずの橋であった.

 

橋上とはいえ,地表に近い部分は藪の猛攻に呑まれつつある.

その中にいくつか看板が放置されていた.

逆光で見づらいが,黄色背景に黒字で「この先車線変更有り」と書かれている.この近辺は片側1車線で車線変更など生じないから,工事中に峠道へ迂回させるところに置かれていたのではないかと思う.

 

橋が終わると,行き止まりが見え始める.正面の巨大な灰色の壁こそが,完成から27年という短命で閉塞・放棄された (旧) 名取トンネルである.

自然に還りつつある.

 

写真にも写っているが,名取橋の先には養蜂箱がいくつも置いてあり,多数のミツバチが飛び交っていた.そのため,これ以上の進軍は諦め,引き返した.

 

帰り道,名取橋から南を向いて一枚.

この景色を車から眺めることはもはや叶わない.

トンネル内の探索

現道まで戻った後は,旧トンネルと接続している痕跡を探すため,現トンネルに入った.

長さ779mということは,三崎側坑門まで往復すれば約1.5km.帰りのバスまでの時間は残り25分.あまり時間はない.

 

入洞してすぐの光景.

奥の暗がりが怪しい!と思ったが,照明が消されているだけであった.その暗い区間の先には,急な左カーブが待ち受けていた.

トンネル内としてはやや無理のある線形にも思えるが,これも地すべり地質を避けるためのものかもしれない.

 

早足で進み,三崎側の出口が見え始めたところで,求めていたものを発見した.

唐突な断面の変化.これが旧トンネルと新トンネルを繋げた痕と思われる.1枚目にそれぞれの坑口からの距離が写っているが,再利用された既設区間は三崎側の156mとのこと 3 なので,ここがその接合部とみて間違いないだろう.

 

三崎側から見ても,はっきりと痕跡が確認できた.

暗い洞内ゆえ見にくい写真であることはご容赦いただきたい.これでも,後方からの車のヘッドランプを照明として利用し,可能な限りシャッタースピードを速くして撮影しているのだが,やはりスマホカメラの性能には限界がある.

 

さらに進んだ先の三崎側坑口付近には,旧トンネルの銘板がそのまま残されていた.

竣工年や延長の数字が,当初の姿を物語っている.

 

最後に,三崎側坑門.

八幡浜側と見比べると,明らかに年季が入っている.

 

さて,この時点で帰りのバスまで残り10分.バス停まで1km.「無理かも」と思いながら大急ぎで戻った結果,バスが少し遅れていたこともあり,なんとか間に合った.

 

無事八幡浜に着いた後は,時間があったので伊予長浜経由の普通列車に乗り,瀬戸内海と「熱帯魚は雪に焦がれる」の舞台を眺めつつ松山に向かった.松山からは飛行機で,あっという間に伊丹まで帰ってきた.1泊2日の短い日程ではあったものの,濃密な旅となった.

おまけ

JR松山駅前の「北斗」で頂いた夕食.「甘とろ豚メンチカツ定食」と「じゃこカツ」.

参考文献

  1. 柴崎宣之,藤田康司,東幸孝,山下憲治 (2009) "国道197号名取トンネル地すべり災害復旧事例" 日本地すべり学会誌, 46(4),pp. 251-256 (リンク先は2021年5月8日閲覧).
  2. のがなあつし (2013) "第2回 国道197号 名取トンネル旧道―RoadJapan" 2021年5月6日閲覧. 
  3. 伊方町・編 (2007) "観光・産業の復活に期待 名取トンネル開通" 広報いかた,30,p. 7 (リンク先は2021年5月8日閲覧).

*1:なお,これは実際には正しくなく,他に伊予鉄南予バスの便 (特急ではない普通便と思われる) も,三往復だけだが存在した.伊予鉄バス公式の乗換案内には表示されていなかったので,当日初めて知ったのであった.